五宮神社(神戸)

五宮神社
生田裔神八社の1社が五宮神社。
生田裔神八社とは生田神社を囲むように点在している八社で、せっせと八宮をまわっています。五宮神社は兵庫区五宮町にあるのですが、なかなかの高台。神戸駅、湊川駅からバスが出ていますので五宮町のバス停で降ります。
バス通りから、大きな車なら絶対に通れない細い道をせっせと登ると社がありますが、高台なので神戸の街が一望できます。
五宮神社の隣には祥福寺という禅寺があり、二重の塔があります。ここからは神戸のずっと西の方を見わたせます。祥福寺までは車で登れる道があり、宅配便は寺の駐車場にいれて、五宮神社周辺に宅配していました。坂の多い神戸では宅配業者も大変です。
この祥福寺には幕末、神戸警備のために来た長州藩兵、数百名がこの寺を基地に、兵庫、神戸を護衛したそうです。西宮警備を命じられた備前藩兵が三宮神社の前で隊列を横切ったフランス人水兵らを負傷させる神戸事件が発生した頃と同じ時期になります。

三重県庁がある吉田山の名前の由来

吉田山
2週間ぶりに三重県産業支援センターへ。
三重県産業支援センターが入居している三重県合同ビルの隣のビルが吉田山会館、三重県庁がある山を吉田山とよんでいますが、この吉田って人の名前だったんですね。
戦国時代に吉田六左衛門重勝という人物がいて、代々、弓術家の家系。近江・六角氏の家来でしたが、主君と争いになり、家伝が絶えることを危惧した父親が重勝に弓術の奥義を授けて京都に移らせました。
吉田重勝は多くの武将と交際し、細川幽斎とは特に親しかったようです。重勝の号は雪荷で、吉田流弓術雪荷派の祖となります。雪荷から免許を受けた武将には、細川幽斎、蒲生氏郷、豊臣秀長・秀次、宇喜多秀家らがいます。
重勝の子供が吉田元直で豊臣秀長(秀吉の弟)に仕え、秀長がなくなると浪人となって京都に在住。吉田元直が浪人していると聞いた藤堂高虎が招き、子孫は代々、藤堂家の弓術師範となります。吉田家は代々、六左衛門を称し、この吉田家に与えた土地が現在の県庁がある土地で、吉田山と呼ばれるようになったそうです。へ~え、家臣の名前が由来だったんですね。
もちろん三重県庁・職員の皆さんは全員がご存知でしょう。

梅田 蔦谷書店

梅田 蔦谷書店
先日、JR大阪駅に新しくできた蔦谷書店・梅田をのぞいてきました。
場所はJR大阪三越伊勢丹百貨店が撤退した後にできたルクアイーレの9階。円形の本棚やソファー、スターバックスなどがあり珈琲を飲みながら本を読むこともできます。なかなか雰囲気がよいお店で、本は面陳列が多く、オヤと思う本と出会えます。
「ワークスタイル」、「ライフスタイル」といったテーマに沿った本を並べており、目的買い向けの本屋ではなく、こんな本もあるんだと新しい本との出会いがある本屋です。京都にある三月書房を大規模にして今風にしたような本屋。
ですので本を探すのはけっこう大変で、まさか大阪本コーナー前に城の本があるとは思いませんでした。普通の本屋は棚下にストックがあってなくなると補充されるのですが、そんなストックは少なく、売れたら補充ができない本屋なんですかねえ。珈琲など喫茶コーナーには行列ができていましたが、本のレジは混雑していなく、本屋としての売れ行きは若干、気にな
ります。
蔦谷書店といえば、大昔、京阪電車に乗っていると寝屋川市駅前に蔦谷書店という看板がかかっている書店を見つけ、蔦谷!えっ、蔦屋重三郎のあの蔦谷!
すごい名前をつけた本屋だと思い行ったことがありますが、行ったらふつうの新刊書店でした(笑)その後、あれよあれよという間に、全国にTSUTAYAが出来てしまいました。
蔦屋といえば、江戸時代に山東京らの洒落本、喜多川歌麿、東洲斎写楽などの浮世絵を出版していた蔦屋重三郎の屋号。斬新な企画でヒットを飛ばしましたが、寛政の改革による取締りから没落、やがて亡くなり1代だけの書店でしたが、蔦谷という名前は出版業界に大きな足跡を残しました。
新しいコンセプトの蔦谷書店は少し江戸時代の蔦谷に近づいたようです。

四宮神社

四宮神社
生田裔神八社の1社が四宮神社 (よのみやじんじゃ)。
生田裔神八社とは生田神社を囲むように点在している八社。順番に八宮巡りすると厄除けになるといわれています。せっかく神戸で窓口相談しているので、せっせと八宮をまわっています。ついでに山城巡りもしていますが、オシャレな北野や異人館、中華街には全然、行っていません。(笑)
一宮神社から順番にまわると一番よいのですが、なかなか難しく、行ける神社から行っています。四宮神社は生田神社の西側、地下鉄・県庁前駅のすぐ近くで、兵庫県庁のすぐ前にあります。
祭神は市杵島姫命と弁財天。古い社で戦国時代には、荒木村重が織田信長の命令で花隈城を築いた時、花隈城のちょうど鬼門にあたるので鬼門鎮護の神とされました。荒木村重が信長に背いた時、池田恒興が花隈城を攻めましたが、この時の兵火で社殿などは焼失してしまいます。再建される時に現在の地に移ったそうです。

土壇場を切り抜ける

大江小学校
土壇場を切り抜けよう、というような使われ方をする土壇場。どうにもならない場面、最後の決断を迫られる重大な局面などで使われる言葉です。土壇とは土も盛って作った壇。刑場で斬首する時に使われたのがこの土壇。まさに土壇場で、これが語源になっています・
大阪府よろず支援拠点はマイドーム大阪7階にありますが、マイドーム大阪があった場所は江戸時代、西町奉行所でした。マイドーム大阪の前が松屋町筋ですが道路を渡ったところにあるのが大江小学校。ここに牢があり刑場もありました。斬首刑はこの刑場の土壇場で行われていたようです。今はビジネス街&マンション街になっています。
そういえば中国からの買い物客であふれている千日前にも刑場がありました。市中引き回しの刑となると大江小学校にあった牢から出されて、本町橋を渡って西へ向かい、西横堀川で南下、道頓堀川を東へ向かい千日前の刑場まで連行されたそうです。

河内湖

河内平野
よく家から枚岡神社-枚岡公園-石切商店街-石切神社-額田戎神社と巡っています。中臣の神さんと物部の神さんを巡る、1時間の散歩コースとなります。
この散歩コースは生駒山の麓を巡るので大阪平野を一望できます。大阪平野を見ると考えてのは、神武天皇の東征時代は河内湖で、水の底だったこと。一部、上町台地だけは水から出ており、台地の上に難波京や四天王寺ができました。住吉大社も境内の前まで海でした。
河内湖の水を抜くために造られた排水路が「難波の堀江」。仁徳天皇が工事を行い、難波の堀江が現在の大川と言われています。これで大阪平野は湿地帯になりましたが、さらに水の流入をとめるため大和川の付替に和気清麻呂が挑みますが、失敗。近鉄・南大阪線に河堀口駅(こぼれぐちえき)がありますが、ここが掘り始めた場所と言われています。
また大坂の陣で家康が本陣を置いた茶臼山古墳(天王寺公園の中にあります)の河底池は和気清麻呂の工事跡と言われています。

小山田高家が討死した処女塚古墳

処女塚古墳
ひょうご産業活性化センターでの窓口相談の後、処女塚古墳に寄ってきました。
阪神・石屋川駅を降りて少し歩いたところにあるのが処女塚(おとめづか)古墳。
万葉集で歌われた古墳として有名です。きれいな娘がいて、かぐや姫のように、たくさんの若者から求愛され、なかでも2人の若者が求婚で争います。娘は立派な男たちが自分のために争うのを見るのはイヤと、嘆き悲しんで亡くなってしまいます。そして2人の若者も後を追ってしまいます。
処女塚古墳から少し離れた西と東にも古墳があり、それぞれ西求女塚古墳、東求女塚古墳と言い、2人の若者の墓と言われていますが、そんな馬鹿なことはなく、この地域をおさめた豪族の墓でしょう。前方後円墳になっていて前方部は道路も古墳に沿ってカーブしています。
この古墳は足利尊氏と新田義貞の戦いでも舞台となりました。湊川の戦いで楠正成が倒れ、生田に陣をしいていた新田義貞は敗走します。この処女塚古墳で、足利軍に追いつかれて、あわやという時に新田義貞の家来だった小山田高家がかけつけ、自分の馬に新田義貞を乗せて逃がします。処女塚古墳で足利軍を足止めしますが、討死してしまいます。

八宮神社(神戸)

八宮神社
日が長くなってきたので、ひょうご産業活性化センターの窓口相談が終わってから八宮神社へ。
八宮神社は生田裔神八社の1社。生田裔神八社というのは生田神社を囲むように点在している裔神八社で一宮神社から八宮神社まであります。数字の順に巡ることを八宮巡りといい、厄除けになるといわれています。
六宮神社は八宮神社の近くにあったんですが、明治初期に道路拡張のため八宮神社に合祀されました、ですので八宮神社にお参りすると六宮神社にもお参りしたことになります。
そうそう三宮神社が神戸・三宮の名前の由来になっていて三宮神社といえば備前藩兵が隊列を横切ったフランス人水兵らに銃撃をあびせ、撃ち合いとなった神戸事件の舞台となりました。
ひょうご産業活性化センターが入居しているサンパルの近くに一宮神社、二宮神社、三宮神社があり、既にお参りしていますので、残りは四宮神社、五宮神社、七宮神社の3つとなりました。ちょっと遠い所にある神社ばかり残りました。

河内寺廃寺跡

河内寺廃寺跡
今日、届いた東大阪市政だよりに河内寺廃寺跡の史跡公園整備をスタートするという記事が掲載されていました。
近鉄で難波から奈良へ向かう時、瓢箪山駅を超えると生駒山に沿って左にカーブし、山裾を登りはじめます。この左にカーブをする時、西側(生駒山の反対側)、住宅地の間に空地が見えます。ここが河内寺廃寺跡。もっとも看板も案内も何もないので地元の人でも、ほとんど知りません。
飛鳥時代後期に造られた古代寺院で、四天王寺形式(塔、金堂、講堂が一直線に並ぶ形)でした。造ったのは百済の渡来人の末裔だった河内直(かわちのあたい)一族。河内郡の長官でした。すぐ近くを東高野街道が通る交通の要衝でしたし、少し高台でしたので古代は眺めがよかったでしょうね。
河内寺廃寺は国の史跡指定を受けたこともあり、史跡公園として整備されることが決まりました。一般公開は2017年になる予定です。

水軍が移り住んだ久留島(津市)

津
津の実家周辺の地名が岩田。今はすっかり住宅地になってしまいました。
岩田は、もともと伊勢神宮の料地であった岩田御厨があった所。御厨とは神の台所という意味で、神饌を調進する場所や神饌を調進するための領地を意味します。
この岩田の一角にあるのが久留島。秀吉の朝鮮出兵では日本水軍の大将が藤堂高虎だったので、村上水軍の一派、来島水軍の将兵の一部が藤堂高虎に従い、そのまま住んだ所だそうです。すぐ近くには伊予町があり、こちらは藤堂高虎の前の領地だった伊予からついてきた町人が移り住んだところ。
そういえば日本海海戦でバルチック艦隊を破った東郷平八郎が戦勝報告を伊勢神宮にするために軍艦を引き連れ、上陸したのが津の港。水軍の大将だった藤堂高虎にあこがれていたようです。阿漕駅から伊勢神宮へ向かいました。
岩田と言えば有名なのが「岩田川の戦い」。伊勢の国司だった北畠の三代目が北畠満雅です。南朝方で、岩田川で足利幕府と戦い、討死してしまいます。これにより北畠氏の勢力が弱まりました。
大阪で住んでいる枚岡も南朝方(楠木正成)が敗れたところですし、いろいろとご縁がありますなあ。