弥生時代の城跡 見晴台遺跡

見晴台遺跡
名古屋の笠寺観音のすぐ近くにあるのが見晴台遺跡。
笠寺台地の東端にあり、周囲に比べ標高が15メートルほどある丘の上で、名前の通り見晴らしがよいところです。周りは住宅街になっていますが古代は海でした。縄文時代から人が住み始めましたが、弥生時代には集落が誕生します。東西約120メートル、南北約200メートルの周りを幅・深さとも約4メートルの堀(環濠)で丸く囲んでいました。魏志倭人伝に書かれた倭国大乱の頃でしょう。
堀跡が一部復元されていましたが、底がV字形の尖った形で、戦国時代の薬研堀にそっくり。堀の深さが4メートルもあって、しかも土塁までありました。かなり防御力が高い環濠集落です。発掘によれば集落は200年ほど続いたあと環濠が埋められており、名古屋市周辺の複数の環濠集落でも同様の動きがあるので、統一政権みたいなものが誕生したのかもしれません。
古代の名古屋といえば尾張氏が勢力を持ち、一族の一つが大海氏で大海氏が養育したのが大海人皇子。壬申の乱で勝利できたのは尾張氏のおかげでした。弥生時代に誕生した統一政権が尾張氏や尾張物部氏になったのかもしれません。
ただ不思議なのは桶狭間の合戦の舞台となった鳴海城に近く、見晴台も城をつくるには好立地だったはずですが、なぜか戦国時代の城は作られませんでした。太平洋戦争時代は立地に目をつけて高射砲陣地が作られ、今も土台が残っています。見晴台遺跡には見晴台考古資料館もあり、おすすめです!

11月11日は「いしきりんの日」

いしきりん
【石切参道商店街】
「デンボ(腫れ物)の神様」として有名な石切神社が東大阪にあります。「がん」の治癒を祈願する人が多く、いつ行っても神社入口から本殿前を行き来きするお百度参りが行われています。
この石切神社と近鉄・石切駅との間を結んでいるのが石切参道商店街。商店街で一番多いのが「占い」のお店。たくさんの占い師が店を出していて、なかには古書街のようにずらっと占い師が並んでいる一角もあります。この商店街のマスコットキャラクターが「いしきりん」。
【いしきりん】
「いしきり+きりん」から命名されています。一応、未婚の女の子なんだそうです。
ずんぐりむっくり体型で、とてもキリンにはみえまえん。しかもキリンなのに首(クビ)がありません。そこから就活、リストラ除けのお守りや、アスリートの足切り(ボーダライン)用お守りとして、「いしきりん」グッズが売れています。
身長:1m4cm
体重:スイカ4個分
特技:時速50キロで走れる(ホント?)
尊敬する人:まんまちゃん
誕生日:11月11日(いしきりんの日) ← 今日です!
タレントとして松竹芸能に所属しています。(笑)

ニッカ池

毛利
報道ステーションで天気予報となると六本木ヒルズの毛利庭園がバックに映ります。だいたい天気予報が終わるとテレビを消して、本を読んで寝てしまいます。(笑)六本木ヒルズのある場所には江戸時、長府毛利家(支藩)の屋敷がありました。
江戸時代初期、幕府や他の諸藩を折衝にあたる江戸留守居役をおくことになり白羽の矢があたったのが福間彦右衛門という人物。筆まめだった人で膨大な日記『公儀所日乗』を残してくれました。おかげで当時の社会情勢や幕府と藩との関係がよくわかる一級資料になっています。講談社学術文庫から「江戸お留守居役の日記」として出ています。
麻布の土地はもともと水が豊富なところで江戸時代から金魚養殖がよく行われていました。戦後1952年にニッカウヰスキーの東京工場ができた時、毛利庭園にあった池はニッカ池と呼ばれていました。
とてもきれいな水で、ジュンサイも生えていたそうです。ウイスキー造りには最適だったのでしょう。現在は毛利池となっていますが、かってのニッカ池はこの毛利池の地下に埋土して保存されています。こんな話は「マッサン」には出てこないでしょうね。

正倉院展

正倉院展
正倉院展、いつもは平日の夕方に行くのですが、今年はうまく予定があわず本日、奥さんと出かけてきました。といっても混む昼間ではなく、オータムレイトチケットの時間帯。
オータムレイトチケットというのは閉館の1時間30分前より入場できる当日券で、今日は日曜で19時まで開館してますから17:30から入場できます。また800円の割引券にもなっていてお得。(通常は1,100円)
さすがに日曜なのでオータムレイトといえども少し混んでいました。 もっとも入場の待ち時間はなし。また18時半ぐらいに入口近くまで戻ると人はほとんどいませんので崑崙や酔胡従の伎楽面も間近で見られます。
正倉院展では毎回、写経生の古文書を楽しみにしているんですが、今年はなかったですね。その代わり恵美押勝が書いた、東大寺封戸処分勅書がありました。力強い筆跡の文章で最期には藤原恵美朝臣と記載。恵美押勝といえば藤原仲麻呂のことで、日本史に出てきた藤原仲麻呂の乱(孝謙天皇・道鏡と対立しクーデターを起こそうとして失敗した事件)の張本人。
以前、写経生が夜中に起こされて正倉院から武器を取り出した古文書が正倉院展で展示されましたが、これが藤原仲麻呂の乱に備えたものでした。写真は閉館間近の奈良国立博物館です。

枚岡祭り

枚岡祭り
枚岡祭りは河内一ノ宮・枚岡神社の秋郷祭で、各町内から太鼓台23台が宮入りします。10月14日、15日の曜日固定で、今年は運悪く、名古屋と津で仕事の日。ちなみに地元では企業の多くは社員が担ぎ手で、お休みになる所が多く、学校も休みになります。
津から枚岡へ着いたらちょうど20時。祭は夜遅く(宮出は23:30頃)までやりますので、全然OKで神社内を太鼓台を練り歩いていました。
小太鼓は中高生が担いでいることもあり、21時ぐらいに帰りだしますので、それについて出ます。ウチの子供が小太鼓を担いでいた頃から宮を出た所で、4台の小太鼓が掛け合いをするようになり、これが見所になっています。
写真は掛け合いが終わって4台の小太鼓を持ち上げているところで喜里川の太鼓台。
そのまま家に帰ったら誰もおらず、家族は最後まで見るつもりですなあ(笑)さあ、歴史秘話ヒストリアを見ようっと!

九条駅の名前の由来

九条駅
三宮にある「ひょうご産業活性化センター」へ行くのに地下鉄・中央線の九条駅で阪神電車に乗り換えています。
でも、なんで九条駅なんですかねえ。奈良には近鉄・九条駅がありますが、ここは平城京の九条通りのあった所。京都市地下鉄の九条駅も同様に平安京の九条通りがあった所です。大阪には難波京がありましたが大阪の九条駅は難波京からずっと西にいったところですから、位置的には一条です。
ネットで調べると諸説ありました。もともとは衢壊(くじょう)というまったく読めない地名だったそうです。漢字が難しすぎ読めないので九条にしたようです。そもそも衢壊(くじょう)という地名は淀川の河川工事で、このあたりの衢(みち)を切ったことから衢壊(くじょう)と名づけられたそうです。
他にも洪水で京都の九条家の笏(しゃく)が流れ着いたからという説がありますが、笏に持ち主の名前が書いてあったんですかねえ。条里制からつけられたという説もありました。西成郡に十八条村があり、一条からずっとありましたが、現在は十三(じゅうそう)、九条が地名として残ったという説です。十三は13番目の橋だからと名づけられたという話を聞いたんですが、どっちが本当ですかねえ。
九条ですが昔は川の砂洲が散在する地帯で九条島だったそうです。九条駅の次の駅が西九条駅で、なんで西九条があって東九条がないのかも不思議です。

日本最古の神社で神事

獅子岩
地元の中日新聞を見ると熊野市にある花の窟神社で縄掛け神事が行われたという記事が出ていました。
花の窟神社は熊野灘に面した海岸沿いにある神社で、ご神体は「いざなみのみこと」と「かぐつちのみこと」。神社に拝殿はありますが、ご神体はそびえたつ大きな岩になっていて、ほとんど崖。
日本書紀によると、火の神である「かぐつちのみこと」」を生むときに陰部を焼かれて「いざなみのみこと」が死んでしまいます。「いざなみのみこと」が埋葬されたのが熊野の有馬村。季節の花を供えて祭った岩屋なので、花の窟神社と呼ばれています。
夫の「いざなぎのみこと」は死んだ妻「いざなみのみこと」を追って、根の堅州国(ねのかたすくに)に行くのですが、変わりはてた妻の姿に逃げ出します。この時に逃げた道が黄泉比良坂で出雲にあると言われています。一説には、根の国は熊野にあったという説もあります。
熊野は神武東征の土地でもあり、古代から聖地ですね。最近はサッカーの聖地にもなっていますが。写真は熊野灘に面する獅子岩です。

ひらおか薪能

ひらおか薪能
「ひらおか薪能」を見に枚岡神社へ。奥さんと毎年行っています。
諸説ありますが能を作り上げた観阿弥は伊賀の人で、お母さんが河内玉櫛荘(東大阪市)出身。大和猿楽の一座に所属していました。実は楠木正成の姉か妹だと言われていますので、そうなると観阿弥は正成の甥になります。そんな謂れもあり、河内一ノ宮である枚岡神社で薪能が行われ、今年で第23回目。
狂言と能が行われますが能は「鵺(ヌエ)」。源三位頼政の鵺退治をテーマにしています。近衛天皇の時代に、大極殿の屋根に夜ごと鵺(化物)があらわれ天皇は病気になってしまいます。そこで源頼政が呼ばれ、鵺は弓で射抜かれ、退治されました。その鵺が亡霊になって現れる話。
昨年の「ひらおか薪能」が「頼政」。鵺退治した源頼政が平家に敗れ、平等院の庭に扇を敷いて自害したのがテーマになっています。もちろん亡霊として現れるのは源頼政。2年続けて、源頼政がテーマでした。(笑)
源頼政が自害した場所は「扇の芝」と呼ばれ、平等院を入ったすぐ左手にあります。「扇の芝」の案内板もあるんですが、何もない広場ですから、そんな所へ行く観光客はまずいません。歴史好きか能好きだけでしょうね。

増田氏城(伊賀)

増田氏城
上野市民病院がある丘の南端に増田氏城があります。民家の横を通って、少し登ると城の入口。写真は増田氏城の主郭から狭間城・北の城・城山城方面を見たところで、向こうに見える丘の端にあります。狭間城・北の城・城山城の後に増田氏城へも行ってきました。
増田氏城は、西郭、副郭、主郭、東郭からなっており、めちゃくちゃ大きなお城。郭を大きな土塁が巡っていて高さは10mもあり、なかなかの迫力があります。城の中の竹藪だらけで、さすがにスーツ姿では土塁にあがるのがやっと。郭の中に入るのはあきらめて土塁の上をずっとめぐっておりました。一角に墓があり、城を作ったと言われる増田氏の墓碑が見えます。詳細は不明で、これだけ大きな城を土豪一人で作れるわけもなく、伊賀の土豪が協力体制で作ったのでしょう。
伊賀天正の乱では伊賀軍が増田氏城にたてこもり信長軍との戦いになったようです。後で調べると、すぐ近くに中森氏城という小さな城があり、こっちは見逃してしまいました。機会を作って、また行かなければ。

うまし うるわし 奈良(新薬師寺)

新薬師寺
明日は雨になりそうですので、今日のうちに奈良へ。
山を越えたら生駒ですので、奈良までは30分ぐらいで着きます。猿沢の池から頭塔横を通って新薬師寺へ。十二神将と萩で有名ですが萩はまだはやかったですね。十二神将は奈良時代のもので全て国宝。十二支の守護神としても信仰されています。境内は暗く、天井からのライトとロウソクの炎で幻想的です。
奈良は秋の行楽シーズンに入ったためか修学旅行生などで一杯。興福寺の国宝館駐車場にも観光バスがずらっと並んでいました。国宝館には板彫十二神将立像があるんですが、展示のやり方が変わり、一直線にずらっとではなく三面に並べる展示に変わっていました。これから観光客がますます増えるシーズンですね。
三条通の中谷堂(高速餅つきで有名)前にはいつものように観光客が鈴なりになっていました。
→ うまし うるわし 奈良