三木鉄道 廃線跡

法界寺を降りて加古川三田線の道路へ出ると、すぐ隣に「別所ゆめ街道」という遊歩道があります。これって三木鉄道の廃線跡です。厄神駅(加古川線)と三木駅を結ぶ路線で、もともとは国鉄の路線だったんですね。第三セクターで存続していましたが、三木市から神戸市内へ向かう人は神戸電鉄粟生線を使うので乗客の減少が続いて2008年に廃線となりました。

三木鉄道 廃線跡
三木鉄道 廃線跡

三木市から加古川へ向かう時はショートカットになりますが、神戸のベッドタウンなので難しかったのでしょうね。もともとは三木駅から川を渡ったところにある別所駅が始発駅でした。ここに公園が作られて西這田駅跡まで「別所ゆめ街道」という遊歩道ができ、駅跡には碑などがあって楽しめます。

別所長治の墓

法界寺裏山に法界寺山ノ上付城があります。麓の三木城を攻める付城でしたが、麓の法界寺には三木城城主・別所長治の墓所があります。

別所長治の墓
別所長治の墓

別所長治は長篠の戦が行われた天正3年(1575年)には信長に謁見して、天正5年の紀州征伐にも兵を出しています。信長との関係がよかったのですが、天正5年10月に秀吉が播磨平定で送り込まれてくると、最初は協力していましたが、天正6年(1578年)2月に離反して三木城に立て籠ります。離反した理由はよく分かっておらず、秀吉の上目線に嫌気がさした、毛利氏経由で足利義昭から工作を受けたなど、いろいろと説がありますが別所氏以外の播磨衆が反信長だったので連携したのでしょう。

織田軍は三木城の周りに付城と城間をつなぐ土塁を築き上げ、兵糧攻めを行います。「三木の干殺し」と呼ばれ、三木城は2年間、持ちこたえましたが最後は城を受け渡し、別所長治は自害します。享年は23歳と26歳説があり、いずれにしても若武者でした。

法界寺山ノ上付城

這田村法界寺山ノ上付城法界寺の背後の山上にある付城です。天正7年(1579)4月に織田信忠が築いた6箇所の付城の1つで三木城を見通すことができます。城主は、羽柴秀吉の重臣・宮部継潤と伝わっています。

法界寺山ノ上付城
法界寺山ノ上付城

■宮部継潤
宮部継潤の出身は近江・国友近くの宮部です。秀吉の中国攻めでは山陽を秀長が山陰を宮部継潤が指揮していました。やがて鳥取城主となり、秀吉が山崎の戦い、賤ヶ岳の戦いと東に転進するなか西を守ります。秀吉の信頼が厚かったんですね。晩年は秀吉の御伽衆になります。

這田村法界寺山ノ上付城は大規模な付城で主郭、副郭と兵の駐屯地である段状の平坦地群が残っています。毛利方が明石から三木城へ兵糧を搬入するのを防ぐための最前線でした。また6条からなる土塁(朝日ヶ丘土塁)が残っていて、なかなか見ごたえがあります。

石山合戦の堀跡

信長方の天王寺砦から石山本願寺まで上町台地がそのままつながっています。石山本願寺にとっては防衛上、とってもまずいので、どっかに堀などをあったはずです。天王寺砦から北に向かうと「いくたまさん(生國魂神社)」があります。もともとは石山本願寺のすぐ近くにあったのですが、秀吉が大坂城を造る時に現在地に移されました。この生國魂神社の北側に千日前通りが通っているのですが少し下がっています。近くに大坂七坂の一つである真言坂があり、千日前通りから生國魂神社があがる坂なんですが、現在はスロープのようになっています。

千日前通り
千日前通り

江戸時代の名所案内などを見ると、急な石段だったので千日前通りは、けっこうな窪地だったようです。これが石山合戦で使われていた堀跡なんですかねえ。ちょうど谷九のあたりです。さらに北側の谷六まで上がると空堀商店街や真田丸で有名な大坂城の外堀があり、反対に南側の天王寺には和気清麻呂が掘った運河跡が残っています。

大和角山城

大和角山城

大和角山城
大和角山城

丘陵の先端部を利用して築かれている城跡で葛上神社一帯にあったようです。ただ土塁などは残っておらず、唯一、境内の北側に空堀が残っていました。北、東、南が崖になっていて、西側の防御をしっかりすればよい立地です。ただ住宅地になっているので防御の遺構などはありませんでした。誰がいつ造った城跡なのかは、まったく不明です。近くに富雄川が流れているので堀代わりだったのでしょう。

スマートファクトリー

年末にスマートファクトリーの対談をしてきたのですが記事となってNTT西日本のサイトにアップされていました。内容は製造業におけるDXで、しゃべった内容がうまくまとめられていました。脱線した話などは当然、カットです(笑)修正しようがないので変な顔で映っています。

止まらない工場「スマートファクトリー」とは
止まらない工場「スマートファクトリー」とは

採用がなかなかできないので、いかに工場の生産性を上げるかがカギで、IoTなどを駆使してスマート化が進んでいます。三重県の製造業の中には作業指示などはタブレットやモニターで一切の紙をなくした会社もあります。

→ 製造業の未来を支える止まらない工場「スマートファクトリー」とは

雪丸

雪丸
雪丸

達磨寺には雪丸のお墓があります。雪丸というのは聖徳太子の飼犬で、白くて、とっても賢かったそうです。人の言葉を理解し、お経も唱えたそうですが、ほんまかいなあ。雪丸像がいつ造られたのか謎ですが江戸時代後期の大和名所図会には出てくるので、この頃にはあったようです。

これに目をつけたのが王子町観光協会。王寺町の公式マスコットキャラクターとして、ゆるキャラにしちゃいました。頭には烏帽子をかぶっています。JR王寺駅から達磨寺までは雪丸ロードになっていて、道路のアチコチに足跡というか肉球跡がついています。

松永久秀の墓

松永久秀、大河ドラマ「麒麟がくる」では吉田鋼太郎が演じていました。お墓が王子にあるんですね。

■松永久秀お悪評はホント?
信長が家康に松永久秀を紹介する時、「主家である三好家の乗っ取り、将軍足利義輝の暗殺、東大寺焼き討ちという常人になしえないことを3つもした」と言った逸話が残っています。ところが最近、松永久秀の肖像画が新たに見つかり、悪評とは違い、出っ歯で温和なイメージの肖像画でした。松永久秀は大和を攻めた時、東大寺や興福寺に軍資金を要求しています。大和の仏教界は散々な目にあわされたため松永久秀が大悪人として記録され、これが後世にひろまったようです。

松永久秀は信長を二度、裏切り、一度目は信長包囲網ができ武田信玄が進軍を開始した時に、こりゃ信長から鞍替えしないとまずいと裏切っています。この時、足利義昭も信長についていると大変だと裏切っています。信玄が病死しなければ家康も信長も危ないところでしたので状況判断としてはもっともです。信玄の進軍がとまり、信長包囲網が各個撃破されると松永久秀は名物の茶道具などを差し出して信長に謝っています。

松永久秀の墓
松永久秀の墓

■松永久秀の墓
二度目の裏切りは天正5年(1577年)です。上杉謙信、毛利輝元、石山本願寺などと呼応して、本願寺攻めから勝手に離脱。松永久秀は信貴山城に立て籠もります。信長は説得を試みますが、破談に。信長は10万の兵で信貴山城を攻撃。10月10日に信長が欲しかった平蜘蛛を叩き割って天守に火をかけ自害します。10月10日は10年前に大仏が焼き払われた日と同じだったため罰が当たったと言われました。

松永久秀の首は安土に送られましたが、遺体は筒井順慶が達磨寺へ葬りました。松永久秀と筒井順慶は長年の宿敵でしたが、何か思うところがあったのでしょう。松永久秀の墓は敵対した片岡春利の墓の横になっています。

伊賀上野城

伊賀をおさめていた筒井定次は関ケ原の合戦で東軍側につくのですが、その後、家中で紛争が起こり、家康はこれを理由に筒井定次を改易します。筒井は豊臣恩顧大名で大坂にちかい伊賀を支配していたため、家康側近の藤堂高虎に替えて大坂方に備える意図がありました。

伊賀上野城
伊賀上野城

■藤堂高虎
近江の甲良町にある藤堂村の土豪出身で七回、主を変えたとして有名ですが江戸時代の封建的な考え方で戦国時代は当たり前でした。身長が190cmぐらいと大男で有名でした。慶長13年(1608)8月、徳川家康は、伊予の国をおさめていた藤堂高虎を、伊賀10万石・伊勢10万石、伊予2万石、合わせて22万石を与えて国替えさせました。

■伊賀上野城
家康は大坂包囲網を作るため、丹波篠山城、姫路城を大改造します。高虎も大坂を守る形の筒井古城を大坂に対峙するための城に大改造。西の大坂に向かって高石垣をめぐらしました。五層の天守閣を造る途中に暴風で倒壊してしまいましたが、大坂の陣が終わったため再建されませんでした。現在の天守閣は昭和10年に造られたものになります。藤堂高虎が亡くなったのは江戸の藤堂藩邸で伊賀上野に似ていたので上野という名前をつけ、これが東京の上野になりました。

ファイティング・コンサルタンツ忘年会

ファイティング・コンサルタンツ研究会の忘年会。場所はいつもの黒門市場にある寿恵廣で、昼間からいつものメンバーが集まり、これまた定番のブリシャブです。昨今の値上がりの影響をうけて価格は高めでした。

黒門市場
黒門市場

黒門市場、コロナ禍では誰も歩いていませんでしたが、今は7割ほど戻ってきています。すっかりインバウンドの街になり錦市場と同様に食べ歩きできる店が多いですね。ホタテやカニを店先で買って焼いて食べられます。

そうそう寿恵廣も、ずっと文字だけのお品書きでしたが料理の写真入りに変わっていました。ブリシャブを食べている時も隣は韓国人グループでした。以前からインバウンド客も入ってきていましたが、さすがに無視できなくなったんですかねえ。結局、4時間ぐらい食べたり飲んでいて、最後はお店の人に追い出されました(笑)