AIの神様はどこ?

勝速日神社
勝早日神社

近鉄・白子駅近くにあるのが勝速日(かつはやひ)神社。勝つ、速い、日の丸ということでF1や八耐の必勝祈願で有名な神社です。社伝では文明年間(1469~1486)に出来たそうで応仁の乱の頃になります。神様の名前はすごく長く正勝吾勝勝速日天忍穂耳尊です。

サッカーの神様といえば京都の白峯神宮で、蹴鞠の家系だった飛鳥井家の跡地に建てられたことから球技の神様になりました。日本サッカー協会のシンボルマークである八咫烏から熊野本宮大社もサッカーの神様になっています。盛り上がったラグビーの神様は下鴨神社に復活した「さわた社」で、はじめてラグビーが蹴られたことに由来しています。

ちなみにITの神様は嵐山にちかい法輪寺にある電電宮です。ドローンは飛行神社の範疇だし、これからだとAIの神様がよさそうですけど、学問なんで北野天満宮になるのかなあ。

薬師寺は藤原京からの移築ではなかった

本薬師寺
本薬師寺

平城京跡で太政官跡(首相官邸のようなもの)とみられる建物の土台が見つかるなど考古学のニュースが届いています。藤原京跡では本薬師寺で東西幅約15メートルという巨大南門の跡が見つかりました。

本薬師寺は聖武天皇が奥さんの鵜野讚良(持統天皇)の病気平癒を願って作ったお寺で本尊は薬師如来です。本薬師寺の伽藍配置は西ノ京の薬師寺とまったく同じで藤原京から平城京へ遷都した時に西ノ京へ薬師寺を移築したという説があります。今回の発掘では2つの南門の構造が全然、違うことが分かり、西ノ京の薬師寺は移築ではなく新築説が有望になりそうです。当時、部材はよくリサイクルされており長岡京遷都の時は難波京の大極殿などが長岡京に移築されました。

本薬師寺は武士が台頭する11世紀頃までは存続したようですが、そのあとは廃れたようで金堂などの礎石だけ残っています。となると藤原京と平城京の2つで薬師寺を管理していたので経費がかかりますがお金はどうしたんだろう。本薬師寺は近鉄・畝傍御陵前駅から東に歩いた集落近くの田んぼにあり、少し南へ歩くと飛鳥です。

勧請縄

勧請縄
勧請縄

野洲駅近くの中山道沿いに背比べ地蔵があり、隣にあるのが行事神社です。中畑、行畑地区の総鎮守で、行事神社という名前がなぜついたかは不明です。

行事神社境内に変わった注連縄がかかっており、これが勧請吊り、勧請掛、勧請縄と呼ばれるもの。道切りともいいます。ムラの出入口や神社境内にかけて、異界(ムラの外)から災害や疫病が入ってこないようにするもので、いわゆるバリアですねえ。大和の田舎や伊賀などでも川によくかかっています。滋賀県の湖南・湖東地方にも勧請縄は多くあります。

この勧請縄の真ん中にトリクグラズと呼ばれる丸い輪がついています。なんでトリクグラズという名前なんでしょうかねえ。鳥居も結界の一つですからトリ+クグラズが語源かもしれません。このトリクグラズの左右に常緑樹を編んだ小勧請縄を平年は12本(閏年は13本)吊るします。

トーマスクック破綻

小田実
小田実

トーマスクック破綻によって旅行中のチケットが無効になるなど、「てるみくらぶ」破綻のような混乱が世界で広がっています。

■赤い表紙が印象的だったトーマスクック時刻表
今から40年ほど前、流行っていたのが小田実の「なんでも見てやろう」、五木寛之の「青年は荒野をめざす」など。感化される若者が多く、私も大学卒業前にバックパックを持ってヨーロッパを巡っていました。ロンドン入国とローマ出国の航空券だけ予約して、あとはノープラン。

「ユーレイルパス」というヨーロッパの鉄道を何度でも利用できるパスがあり、これと「トーマスクック時刻表」、「地球の歩き方」を持って、列車を乗り継いで旅をします。あの頃は若かったな~あ(笑)。あのお世話になったトーマスクックが破綻したんですねえ。

なぜか映画「ベニスに死す」の舞台であるリド島で同じく旅行中の日本人学生と「これから就職だな~あ」なんて話をしたのをいまだに覚えています。無事に就職し、月日が流れ
知的生産の技術研究会・関西で「なんでも見てやろう」の著者である小田実さんにセミナーをしてもらった時には感激しましたね。「難死の思想」が講演テーマでした。

Gacco 京都からおくる日本史研究の最前線

Gacco
Gacco

Gaccoで「京都からおくる日本史研究の最前線」が始まりました。最近、ITネタや統計の講座が多かったのですが久しぶりの歴史モノです。

講座提供は立命館大学で第一週「争乱と異変の日本古代史」が昨日から始まりました。古代から現代までがテーマとなっていますが第一週は大化改新、壬申の乱、長屋王の変、藤原広嗣の乱、恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱、藤原種継暗殺事件と7世紀から8世紀の有名な争乱と異変を最新の日本史の知見から見た内容になっています。

藤原種継暗殺事件ですが長岡京遷都の最中に発生した事件です。桓武天皇と対立した勢力との争いが基軸になりますが、なんで弟の早良親王が怨霊にならないといけなかったのかなどなど...そういえば昨日はワープロの日でもありましたが安倍晴明の命日でもあったんですね。

次週はいよいよ中世です!

■Gaccoとは
Gaccoというのは日本語版Moocのことで、Moocとは2008年に世界中の誰もがオンラインを通じて大学の講義を基とした教育を無償で受講できるようにすることを目的に立ち上げらた大規模公開オンライン講座です。ネット環境があれば誰でも受講できます。ただし基本的に英語で、それを日本語版にしたのがGaccoで、株式会社ドコモgaccoが提供しています。

既存店舗にやさしくないキャッシュレス・消費者還元制度

カード
カード

来週から消費税アップでキャッシュレス・消費者還元制度が始まりますが、これがややこしいですねえ。

昔からVISAのキャッシュカードを導入しているお店から相談があって、まずはカード会社に加盟店登録をしてくださいと言ったら、どの加盟店も申込できるわけではなく、既存のカード手数料が3.25%以下で契約しているお店だけという返事でした。

「今のカード手数料いくらですか?」
「さ~あ。」
町のお店からよく返ってくる返事です(笑)

経済産業省のページを見ていると、同じVISAでも補助金で読み取り装置などを導入したところは期間中は3.25%で国が1/3を負担し、実質2.166%以下となるとあります。新規申込だけなんですねえ。

仕方ないのでこれを機会にスクエアに替えましょうということで動いています。

キーパンチャーという仕事があった

キーパンチャという仕事があった
キーパンチャーという仕事があった

本日はワープロの日。私がプログラマをやっていた頃はパソコンなんて会社にはなく、あるのは汎用機やUNIXに接続された端末だけ。それも人数分はありません。

端末がなかなか使えないのでプログラムは紙に書いて、キーパンチャに頼んで手書きのプログラムをデジタルデータに変換してもらっていました。

今も自分が書いたメモを解読するのに四苦八苦している悪筆なんで、変換してもらったプログラムをコンパイル(機械語への翻訳)をしたらエラーのオンパレード!苦労しました。

ワープロが登場し、パソコンでプログラミングできるようになって、どれだけ感謝したか!

J-Mottoに連載しているコラム。今月は「キーパンチャーという仕事があった」です。→  キーパンチャーという仕事があった

今日はワープロに日

バグは本当に虫だった
バグは本当に虫だった

日本最初の日本語ワープロ機JW-10が発表されたのは1978年9月26日。これを記念して9月26日は「ワープロの日」になっています。発売したのは東芝で630万円もする代物でした。

NHK連続テレビ小説「とと姉ちゃん」で、戦前、就職した主人公が和文タイプライターと格闘するシーンがでてきます。タイプライターといってもキーボードを打つのではなく、縦横に配置された二千ほどの漢字から必要な一字を探しだし打つ機械です。この漢字一字を探すのが大変で、短い日本語文章を作るのも一苦労。一文字間違えると全てやり直しという過酷な機械です。1980年代頃まで現役で使われていました。

→ バグは本当に虫だった
第2章 インターネット・パソコンの黎明期に記載しています!

大坂の陣に向かう家康が宿泊した近江・永原城

永原城
永原城

写真の水田が堀跡で本丸は右側の竹藪の中にあります。

■将軍専用宿泊施設
野洲にある朝鮮人街道(中山道の脇街道で織田信長が安土城を通らすために整備、江戸時代は朝鮮通信使が通る道)から琵琶湖側に少し入ったところに永原御殿跡(永原城)があります。関ヶ原の戦いの勝利後、家康が佐和山から安土、永原と朝鮮人街道を凱旋して上洛したことから、この道が吉礼の道となりました。家康の上洛用に本丸御殿を関ヶ原の翌年(1601年)に設けます。

もともと秀吉が家康に野洲を在京賄料(出張経費)として与えていました。やがて江戸幕藩体制となり、将軍専用の宿泊・休憩所として秀忠、家光時代に御茶屋御殿が整備されます。近江にあった将軍専用宿泊施設が永原御殿(野洲市)、伊庭御殿(東近江市)、水口御殿(水口城跡・甲賀市)、 柏原御殿(米原市)の4つです。

■御殿といいながら戦国の土の城
永原御殿という名前ですが、戦国時代に作られたのですから土塁と堀に囲まれた土の城で櫓が建ち並んだ平城でした。本丸内に御殿が建てられ、徳川家光の上洛では、本丸のほか、二の丸や三の丸が設けられます。現在の永原御殿跡は、竹藪や民家・水田などとなっています。

本丸跡に入って土塁を眺めてきましたが、この時期はまだまだ藪蚊だらけで、這う這うの体で退散してきました。城巡りにはもっと冷えないといけませんなあ。

■信長公記に出てくる永原城はここではなかった
佐々木六角氏の重臣だった永原氏によって築かれた永原城があり、信長公記に出てきます。信長の近江侵攻で敗れ、信長の重臣である佐久間信盛が城に入りました。この永原御殿が永原城跡ではないかと言われていました。

発掘調査の結果、どうも永原御殿から700mほど行った祇王小学校にあったようです。信長公記に「永原の佐久間与六郎所」という言葉があり、与六郎が祇王小学校あたりの小字でした。

近江浮気城

近江浮気城
近江浮気城

近江浮気城です。

不倫かいなと疑うような名称ですが、浮気は「うわき」ではなく「ふけ」と読みます。伏流水が湧き出し、湿地帯で水蒸気が漂う土地のことを”水がふける”というそうで浮気となりました。今も水路が巡り、津和野のように水路をでかい鯉が泳いでいました。

浮気城は近江国栗太郡物部郷の一部にあります。浮気城は浮気時房によって築かれたとされていまれす。浮気氏は、もともと北条氏の出身で、北条時綱が浮気を領したことから移住し、地名を名字にして本貫にしました。その後、浮気氏は後醍醐天皇や佐々木六角氏に仕えたようです。佐々木六角氏側で織田信長と戦いましたが、佐々木六角氏が滅亡した後は織田、豊臣に仕えました。織田信長が金森御坊の一向一揆衆と対峙したおり、浮気城を拠点の一つとしたと伝えられています。

近江浮気城は平城で現在は住吉神社境内になっています。裏側に土塁や堀跡が残っていて、周りが湿地帯でしたので大和筒井城のように攻めにくい城だったようです。