
津のアチコチに貼ってあるのが「祝 津商業高校 甲子園出場」の文字。
津商業高校の三重大会での優勝は初めてではなく、1961(昭和36)年に優勝した経験があり、2回目です。ところが当時は三重県と岐阜県の2県で1校しか甲子園に行くことができず、三重大会のあとの三岐大会で県岐商に破れてしまいました。ですので甲子園出場は今回が初めて。
第一試合で強豪・智弁和歌山に勝ち、2回戦は14日(金)に鳥羽(京都)とあたることになりました。在校生は競技大会などに出ていない限り応援。50台以上のバスをしたてて甲子園を向かうそうです。バス1台のチャーター代が15万円ほどなので50台だと750万円!
在校生はもちろん無料ですが、父兄なども同乗でき確か9,000円ほど。これで往復バス代、弁当代、応援グッズなどがついてくるので、かなりお得です。ただし応援席は試合が終わったら5分で片付けて出ないといけないそうで大変です。違う競技で全国大会に出た部活の先生が、「こっちの応援はバス1台しか出なかったのに、えらい差や!」と言ったとか、言わないとか、地元だといろいろな話が入ってきます。(笑)
高校野球なんで応援席ではダメでしょうが、内野席でビールが飲めるのか議論になったんですが、ネットで調べるとビールもチュウハイも売りにくるそうです。炎天下の甲子園ですので、飲まなきゃやってられないでしょうね。
中之島図書館で創業セミナー

大阪中小企業診断士会と中之島図書館のコラボで行っている「できるビジネスマンのためのスキルアップ講座」の3回目(全5回講座)
3回目の担当は私で、「創業するなら個人事業、法人のどっちが得?」というタイトルの創業セミナーを行ってきました。1時間半のセミナーなんですが、セミナータイトルに入るまでの「はじめに」にセミナー全体の1/3(30分)もかかる構成になっています。(笑)
セミナー中に寝かさないのがコンセプトなので、今回もバンバンに音をかけておりました。セミナーの内容は
・個人事業と法人の違いとそれぞれのメリット
・個人事業で開業して法人成りする事業者が多いのはなぜ?
・会社を辞める前に準備しておかないといけないことは
などなどでした。
創業相談場所として大阪府よろず支援拠点と中之島図書館で行っている経営相談(大阪中小企業診断士会)を案内しておきました。写真は中之島図書館の横にある中之島公会堂。リバーサイドにおしゃれな店が並び、中之島の夜はとってもきれいですね。
BLAST研究会

昨日は大阪産業創造館でBLAST研究会。
BLAST研究会というのは2002年度大阪地区で実務研修した仲間が中心となってスタートした中小企業診断士の研究会です。BLASTは『一吹きの風』を意味しています。沈滞化の激しい日本経済に吹き抜ける『一吹きの風!』という気持ちを込め命名しています。
1年に3回ほど研究会を開催しているのですが、今回のテーマは
・京都100年企業研究会の現状とこれはイケる!
「京都老舗ツアービジネスモデル」 林さん
・2025年、日本の「働く」はどうなっているのか? 小池さん
・経営コンサルタンツの7種道具 玉島さん
玉島さんの発表は「経営コンサルタンツ」の話のはずがアニメの話が半分以上なのはなんでだろう(笑)
ものづくり&コワーキングスペース Co-Box

知的生産の技術研究会・関西セミナーを天満橋にある、ものづくり&コーワキングスペース「Co-Box」で実施。講師はCo-Boxを運営されているLCUBE株式会社の本所代表。
実は20年ぐらい前にNifty-ServeにあったFchiekn(知的生産の技術)フォーラムで知り合った方です。2013年11月に創業。机などは手作りで作りあげ、Co-Boxを開業。コワーキングスペース(得意な分野で皆で互いに助け合う施設)で国内には400ほどありますが、半分が東京で第2位が名古屋で第3位が大阪。大阪には40ほどあります。
ただ「ものづくり&コーワキングスペース」は日本に3ケ所しかなく、その一つがCo-Box。大阪には一つしかありません。「協働してものづくりをビジネスに」をコンセプトに運営しています。
登録メンバーは170名を超えていますが、7割が男性。最年少は中学生で、鉄道倶楽部に所属していて線路脇に建てる教会を作りたいということで登録メンバーに。オートキャドの図面が使えますかという言葉に驚き、最後に領収書もらえますかという言葉にまた驚いたそうです。末恐ろしい中学生ですね。
絶カレー
八尾飛行場の予備滑走路

日本一短い商店街・肥後橋商店街の近くにあるのが靭(うつぼ)公園。ここが終戦後にアメリカ軍が作った靱飛行場跡というのは有名な話です。
八尾飛行場は現在もありますが戦時中は大正飛行場と呼ばれていました。アメリカ軍による飛行場への攻撃が多くなったため近くに予備滑走路が作られたそうです。現在の府道八尾枚方線の一部がそうで、戦後は府道に転用されました。確かにまっすぐな道路が続いています。
戦後70周年特集を関西のテレビ局でやっていて紹介していました。予備滑走路が八尾にあったんですねえ。一時、八尾の高安に住んでいましたが、知りませんでした。
この滑走路跡の近くには大坂夏の陣・八尾・若江の戦いで、藤堂高虎、井伊直孝の両軍と戦い敗れた木村重成の墓があります。徳川家康が木村重成の首実験をした時に、兜をとった髪から香の香りが漂ったことから戦いに挑む姿勢に感心し、ほめたたえます。
カレー「よそみ」

大阪府よろず支援拠点で窓口相談。
ランチ前に飛び込みの相談があったので少し遅いめのランチ。「よそみ」というお店に行ってきました。ビルの2階にあるお店で、入口には三角看板しかなくカレー屋さんがあるとはわからないようなお店。ノボリもありませんでした。店前にも案内はなく、ここだろうなと建付けがわるい扉をスライドさせるとお店。
食べログで見ると、もともとは「にどみ」というカレーの有名なお店で、期間限定で欧風カレーの店に鞍替えしているようです。それで「よそみ」なんて名前になっているんですね。
カウンター奥にはお酒が並んでいて、夜はカレーBarになるようです。カウンター7席とテーブル席が3つで、17人ほどのお店。
おすすめが混盛スタイル(デザート付)1000円ということで、それにしました。牛スジカレーやらサラダなどが盛られた皿が出てきて、「全部、混ぜて食べてください」ということなので混ぜて食べました。ゼロワンカレーと同じスタイルなんですなあ。牛スジがなかなか美味。
食後にブラックパウダーのアイスクリームが出てきましたが、これが濃厚でおいしかったですねえ。行列ができるお店ということですが私が行った12:30頃は10人ほどのお客で、今日は1回転ちょいぐらいですねえ。
家康の本陣跡

今年は大坂の陣から400年。今日の日経新聞の文化欄にも大坂の陣の話題が載っていました。
家から少し歩いた豊浦という所に児童公園があるのですが、東高野街道から少し登った、高台になっていて眺めがよい所です。今は無理ですが、400年前なら大坂城がよく見えていたでしょう。この公園にあったのが中村屋敷。中村家は佐々木源氏の一派で、もともとは近江にある鯰江(なまずえ)城にいました。鯰江城は「河岸段丘」を利用して築城された城でした。室町時代に豊浦村に移ったようです。
中村屋敷は冬の陣では家康が、夏の陣が秀忠が最初の本陣にしました。ここから大坂の陣がスタートしたんですね。
そういえば今日は八月一日、八朔の日です。
新しい穀物を収めて祝う行事が各地で行われ、祇園では挨拶まわりが行われます。徳川家康が江戸に正式入府したのが八朔の日です。江戸時代は神君・家康公が江戸入府した日として幕府の重要な式典の日になりました。
全国の渡辺さんの故郷

天神祭を見に行った時、天満橋近くの大川に渡辺津の碑が建っていました。おお!こんな碑が出来たんですね。ここが全国の渡辺さんや渡部さんの故郷です。
渡辺津とは大川にあった古代の港で、熊野古道もこの渡辺津が起点でした。時代がくだると渡辺津近くの台地の上に石山本願寺が築かれ、信長との10年戦争に突入します。
平安時代後期には源綱がこの地に住んで渡辺を名字とし、渡辺氏を起こします。渡辺綱の子孫は渡辺党と呼ばれる武士団となり、港を背景に水軍として日本全国に散らばります。これが全国に拡がる渡辺さんのルーツとなります。北九州にわたった一族は松浦党となります。
この渡辺津にあったのが坐摩(いかすり)神社。秀吉が大坂城を築城する時に坐摩神社および渡辺党に退去を命じたので坐摩神社は本町駅の南にある久太郎町に移転しました。この坐摩(いかすり)ですが、宮中に「座摩の巫」が祀られていて、都下(つげ)造氏の童女が祭祀をしたそうですので、ツゲですので古代朝鮮に関係していたようです。実際、渡辺津のあたりは旧新羅江とも呼ばれており、坐摩神社が移転した久太郎町は百済の当て字でしたので、渡辺党のほとんどはもともと渡来人のツゲ氏だったようです。
浅井三姉妹がいた伊勢上野城

研修の帰り、久しぶりに伊勢上野城へ寄ってきました。伊賀上野城ではなく伊勢上野城です。
信長による伊勢攻めが始まった時、北伊勢の長野氏が信長に対抗しました。この長野氏の一族で分部氏に養子に入っていたのが分部光嘉、当時わずか17歳。。一族が徹底抗戦しようというなか、黒田官兵衛のように時流がみえていたのか和睦を主張し、いろいろと画策し、長野家に信長の弟である信包を招きます。信包が分部光嘉に築かせたのが伊勢上野城です。
街道を見下ろす小高い丘の上にあり連格式の曲輪で構成されています。今は公園になっていますが土塁などが残っており、ちょっとはずれた竹藪に入ると堀切なども見事に残っています。公園なのでスーツ姿でも大丈夫ですが、スーツ姿での竹藪はあまりおすすめできません。(笑)
■浅井三姉妹がいた
浅井長政が小谷城で滅んだ後、織田信包がいた伊勢上野城にお市の方と茶々(淀君)、お江、お初の浅井三姉妹がやってきます。やがて今の津城が完成すると、そちらに引越。伊賀上野城は分部光嘉が城代となります。秀吉が亡くなった後、関ヶ原の合戦が起きますが、その前哨戦として津城が攻められます。小西行長、宇喜田秀家などの西軍3万が津城の2千におそいかかりますが、津城主富田氏と共に戦ったのが分部光嘉。多勢に無勢で和議になりますが、その功績から近江の大溝に移り、大溝藩2万石は明治維新まで続きました。伊賀上野城は廃城となります。
■硬骨漢だった細野藤敦
この分部光嘉のお兄さんが細野藤敦。信長の伊勢攻めで徹底抗戦を主張していた中心人物です。和議をすすめた分部光嘉は、このお兄さんを追放しますが、なかなかの人物だったようで、最後まで徹底抗戦。最後は根来寺で秀吉とも戦っています。
戦国武将の間でも細野藤敦の武名は有名だったようで松坂に入った蒲生氏郷が7000石で迎え入れ、やがて家康の時代となった時に、戦国乱世の世をよく真っ直ぐに生きられたと家康に声をかけられています。
