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正倉院展へ
日中は混んでいるので、毎年、閉館1時間半前から発売するオータムレイトチケットで入館しています。入口に行列もないし、人はまあまあ入っていますが混雑ほどではないので、じっくり見るには最適です。
いつも古文書を見るのを楽しみにしているんですが、今年の目玉は「続修正正倉院古文書 第二十三巻」。中身は写経生の借銭申請書です。
写経所で働く写経生が、写経所から借金をした際の「借用書」で、月の利率は十五文で、担保まで取っていました。利率15%と、けっこう高金利ですね。担保は布が中心のようでなかには衣服もありました。他には土地、建物などで、こうなると銀行と変わりませんね。
金利は途中で十八文(18%)にあがったそうで、返さないやつが多かったんですかねえ。モビットやアイフルの金利が4.5%~18%ですので、一番信用力がない金利と同じです。借りた写経生ですが、まさか自分が書いた借用証書を1300年先に見られるとは考えなかったでしょうね。
三木の干殺し 戦を土木に変える
豊臣秀吉の有名な戦いといえば三木の干殺し、鳥取のかつえ殺し、備中高松の水攻めです。
いずれの戦いも大規模な土木工事を行った戦いで有名です。司馬遼太郎だったと思いますが、南方の島で日本軍が撤退した後、アメリカ軍がやってきて、いきなりブルドーザで滑走路を作りはじめ、そこから飛行機を飛ばしはじめます。戦争はつまるところ土木なんだというような文章がありましたが、それを戦国時代に行ったのが秀吉です。
神戸(新開地)から神戸電鉄に乗ってずっと山に入っていくと金物や刃物で有名な三木市があり、三木城のあったところ。神戸電鉄・三木上の丸駅のすぐ横の崖の上が三木城跡です。といっても本丸広場以外にはあんまり遺構がありませんが。縄張り図をみると、けっこう敷地が広く、比高は20メートルほどしかありませんが、この城を攻めるのは大変だったでしょうね。
というわけで城の周りに付城を作り兵糧攻めを始めました。明石にある魚住城が瀬戸内海沿いにあり毛利がここから兵糧を入れないようにするためです。付城は一説には40と言われていますが、そのうち23城の遺構が残っています。よく残りましたね!付城と付城の間は土塁を巡らし、完全に封鎖しました。早い話が万里の長城のミニチュア版ですね。
戦国時代の付城が大量に残っているのは珍しく、この三木城と付城、土塁跡が今年、国史跡に認定されたそうです。教育委員会で国史認定記念の展示会をやっていてラッキーでした。秀吉の本陣は三木城から4kmほど離れた平井山の上にあった付城でした。秀吉の軍師・竹中半兵衛は三木城攻防戦の最中、平井山の陣中で病死したため、お墓は平井山にあるそうです。一度、行かないと
関西を元気にする国際フォーラム
マイドーム大阪(堺筋本町)で開催された「関西を元気にする国際フォーラム」 に参加してきました。
海外進出や海外人材をどう活用するか等、盛りだくさんの内容で、なかなか勉強になりました。海外進出、人材活用、共に相手は異文化なので多様性を理解することが重要。
専門学校で教員をやっていた頃、中国からの留学生も受け入れていたため、異文化にとまどう連続でした。ある日、専門学校へ警察から電話がかかってきて、「おたくの学生が自転車を無燈で走っていた」とのこと。留学生に聞いたら、バイトへ自転車へ行く途中で警官につかまったけど、なんで、つかまったのかよく分からないようでした。
「夜はちゃんとライトをつけて乗らないといけないよ」と言ったのですが、その後、留学生の出身地である瀋陽へ行ったら、誰もライトをつけて走っていません。そもそも自転車にライトがついていませんでした。(笑)大連へ行ったら、こっちは自転車で走っている人は誰もいません。坂だらけの街なので、誰も自転車に乗らないそうです。多様性を理解するって、やっぱり難しいですね。
忍者列車で伊賀へ
大阪から近鉄・伊賀神戸駅へ出て、伊賀鉄道に乗り換え。
伊賀鉄道はもともとは国鉄・関西本線の伊賀上野駅から西名張駅まで結ばれていた線で大正時代にできました。当時の名前は今と同じ伊賀鉄道。昭和になってから大阪電気軌道(今の近鉄)に合併されてしまいました。伊賀神戸駅から西名張駅は近鉄と並行して走っているので廃止に。
赤字路線だったので近鉄が手放し、昔の名前を復活させ伊賀鉄道になっています。フォークが流行した頃、西岡たかしが上野市(うえのまち)という歌を作って大ヒットしました。
♪私が訪ねた上野市 忍者屋敷の上野市
茅町 桑町 広小路 もすこしゆられて上野市
歌通り、伊賀鉄道に乗って茅町(かやまち)駅、桑町駅を通り、広小路駅で降りて企業巡りをしていました。松本零士がデザインした忍者列車が走っています
城巡りシーズン到来
お堀をトコトコ走る電車
名古屋と焼き物で有名な瀬戸を結んでいるのが名鉄瀬戸線。今は栄の地下から出ていますが、かっては名古屋城のお堀が出発点でした。
名古屋城三の丸の外側に外堀が残っていて今も健在です。水堀ではなく空堀になっています。愛知県図書館の近くに御園橋があり、この下に堀川駅があり、ここが始点でした。ここから外堀の底をトコトコと走っていました。城の堀を走る鉄道は全国でも名古屋だけでしたのお堀電車と言う名前で親しまれていました。
先日、名古屋城へ行った時に外堀沿いを歩いてきました。大津橋の横にお堀に降りる階段があるのですがこの下にあったのが大津町駅。今は立ち入り禁止になっていて看板には名古屋鉄道と書いてあります。廃線になったあとも名鉄の管轄になっているんですね。
大津町駅を出ると外堀沿いに90度曲がり、お堀をコトコト走って外堀がなくなるあたりで地上へ出て瀬戸へ向かっていました。残念ながら昭和51年にお堀の路線は廃止し、栄乗り入れになりました。一度は見てみたかったですね。線路後はしっかりお堀に残っていました。
21歳の創業者
生きている間に日の目を見ない修理記録
経営革新塾(桑名商工会議所)
金生山(きんしょうざん)
新幹線で大阪から名古屋へ向かう時、関ヶ原古戦場跡で笹尾山(石田三成の陣跡)、桃配山(徳川家康の陣跡)を見て、大垣に入る手前、左手(北側)に山が見えますが、これが金生山(きんしょうざん)。
山の半分ぐらいがなくなっていますので、よく目立ちます。この山から良質の石灰岩、大理石がとれるため江戸時代から現代まで採掘され山が半分なくなっています。この石を運ぶためにできたのが美濃赤坂線。東海道本線の支線で大垣駅から美濃赤坂駅を結ぶ5キロの支線です。いつか乗りたいのですが、まだ乗ったことがありません。
この美濃赤坂は中山道・赤坂宿があったところで関ヶ原の戦い前に江戸から着いた徳川家康が陣をしいたところです。近くを流れていた杭瀬川で前哨戦が行われ、島左近の奇襲戦で東軍は負けてしまいました。いつも新幹線から見るだけですが、美濃赤坂、一度行かないと。