金曜日、桑名で午後から仕事でしたので、その前に西桑名駅から軽便列車の北勢線に30分ほど乗ると大泉駅へ。
場所はいなべ市員弁町になります。駅からちょっと歩くと北金井という地になり、ここに金井城跡があります。いろいろな山城に行きましたが、城用の駐車場があるのを見たのは始めて。手製の看板ですので、地元の人が作ったのでしょう。いつも城の入口を探すのが大変なんですが、とっても分かりやすくなっています。
看板近くに城の入口があり土橋を渡って城の中に入れます。主郭の中はヤブだらけですが、主郭を巡っている土塁を巡ることができ、ところどころに横矢がかかる張り出しがあり、なかなか見応えがあります。だた、スーツで行くのは、あまりおすすめしません。(笑)
金井城を造ったのは種付氏で、種付氏は近江国神崎郡種付郷が発祥です。近江守護だった佐々木が六角氏と京極に別れますが、近江南部を支配した六角氏の系統です。八風街道経由で八日市へ行けますし、鞍掛峠越えで多賀大社(彦根)へ抜けられました。
金井城は境目の城だったので美濃国守護の土岐氏とも2度ほど戦い、しりぞけました。最終的には織田信長に攻められ、滅びます。
→ 金井城の動画
今日は「企業のIT活用記念日」!
本日、3月20日は「電卓の日」ではなく「企業のIT活用記念日」です(笑)。AllAbout「企業のIT活用」がスタートし今日で、ちょうど13周年になります。
All About自体は1年前の2001年からサービスを始めていて、2002年3月20日スタート時の名前は「企業のIT導入」(2005年4月にサイト名を「企業のIT活用」へ変更)。会社は恵比寿にあって、最初に行った時はこじんまりとしたオフィスでしたが、移転するたびに大きくなって、しかもお洒落になっていきました。そういえば、またオフィスを移転するとアナウンスがありましたが基本、恵比寿周辺からは動きません。
ガイドには編集者がつき、記事作りなどで相談にのってもらえます。初期の頃は、けっこう編集者とのつきあいがマメでしたが、会社が大きくなるにつれ担当替えなどで次々と編集者が変っていきます。「企業のIT活用」の担当編集者も今で何人目だろう?前の編集者は、結局、会わない間に担当が変わって、いなくなってしまいました(笑)。また編集者の転職や、辞めて起業したりというケースもあります。
サイトがオープンした頃は週1回、メルマガを書き、ほとんど毎週にわたって記事を書く生活がずっと続き、おかげで筆力はだいぶ鍛えられました。現在、累計ガイド記事は360本になっています。昔、書いた記事の内容はきれいさっぱり忘れており、時たま読み返すと、なかなかすごいことが書いてあるじゃないかと自画自賛しております。
今後とも「企業のIT活用」をよろしくお願いします。
やっちまったな~
本を物色していると本郷先生(東京大学・史料編纂所教授)の新書を発見。
「戦国武将の明暗」(新潮新書)という、なかなか魅力的なタイトルです。いやあ、待て待て。調子よく買って、同じ本がダブルことがよくあるので、ここは慎重に見極めないと。
「まえがき」を読むと、「ぼくの本は売れません。本人は一生懸命いいことを書いているつもりなのですが、残念ながら全然。」。と、印象的な一文がありました。こりゃ、初めて読む文章だ、大丈夫、大丈夫、この本はまだ読んでいない。
いやあ、待て、待て、やはり奥付を確認しよう。奥付を見ると2015年3月20日発行とあります。初版だし、こりゃ大丈夫と入念な吟味の末にお買い上げ。
電車に乗って、さっそく本郷先生の本を読もうとカバンを探すと、別の新書が出てきました。
あれ、読んでいない本があったんだあ、まずはこれから読むかなと開くと、「戦国武将の明暗」(本郷和人)というタイトルが。やっちまったな~。
本郷先生!先生の本はよく売れています。現に同じ本を2冊も買って売上に貢献している御仁がここにおります。あ~あ、また、やってしまった!
環濠集落 大塚遺跡
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先日、行った新横浜の大塚遺跡。横浜・地下鉄ブール―ライン線のセンター北駅近くにあります。大塚遺跡は弥生時代中期の遺跡で、環濠や竪穴住居などが復元されています。
環濠集掠と言えば、まあ早い話が城の原形です。当時の環濠は土塁の内側に空堀を作っていて、戦国時代の城とは反対。土塁の外側に空堀を作った方が防御力が高まるはずですが、なんでこんな形にしたんですかねえ。ひょっとすると水堀にして灌漑用か非常用の水を確保したかもしれません。
戦国時代、京都の西岡にあった物集女城は水堀になっていますが、村の灌漑に使われていた例があります。大塚遺跡は茅ヶ崎城址公園から、ちょっと行ったところにあり、同じような丘ですが戦国時代の城跡にはなっていません。大塚遺跡がある丘の上はけっこう広いので、戦国時代の城には不向きだったのかもしれません。
マナカ解約
名古屋市地下鉄や名鉄に乗る時に便利なのがICカード「マナカ」。
マナカで公共交通機関に乗ると翌月に10%以上のポイントが還元されて、このポイントで電車に乗ることができます。つまりICカードを使うと10%オフで電車に乗れます。
ただし、ポイント還元は自動ではなく、駅の自動販売機を使って自分で行わなければなりません。なかにはポイント(有効期限があります)があることを知らない人もいて、ポイントを失効してしまい、奥さんに「何やってんの!もったいない」と怒られる、ご主人が、ままいます。
ピタパも割引になりますので、大阪人としては関西と近鉄ではピタパ、名古屋ではマナカを使いこなしておりました。ただ4月以降、名古屋で乗る機会が減るので、今日、マナカを解約してデポジット分の500円を返してもらいました。
ピタパは後払いしか使っておらず、先払い用にイコカを持っているんですが、イコカも割引してくれないかなあ。近鉄名古屋駅近くのナナちゃんは卒業式スタイルになっていました。
柴田勝家が生まれた下社城
織田信長の宿老である柴田勝家。
映画やドラマでは必ず出てきて、直情で猪突猛進な姿で描かれます。最後は秀吉と対立し、賤ヶ岳の戦いでは前田利家の裏切りにより敗退。しかし恨みがましいことを利家には言わず、北の庄城でお市の方と共に自刃します。その柴田勝家が生まれたのが下社城。
名古屋地下鉄・東西線の上社駅を降りて、高級住宅街などを抜け、20分ほど歩くと明徳寺があり、かなりの高台になっています。城の遺構は残っていませんが柴田勝家の生まれた下社城跡です。寺からは周囲がよく見え城跡ということがよく分かります。勝家は織田信秀(信長のお父さん)の家臣でしたが、信秀が亡くなると織田信行(信長の兄弟)の家老となります。
織田信秀が最後に住んだ末森城は信行が継承しました。勝家の下社城(上社駅)から末森城(本山駅)までは4駅と近いので、勝家は下社城から末森城まで通っていたのでしょう。やがて信行は信長と対立して自刃することになります。
勝家は信長に仕えることになりますが、信長の清州城は名古屋駅の向こうですので、この時は清洲の屋敷に住んでいたのでしょう。上社駅近くには上社城跡、一色城跡などが残っています。今は2つとも寺になっています。
味ご飯って三重弁だったの
中部地方なのか、近畿地方なのか、よく分からないのが三重県。
そんな三重県について取り上げた本が「三重県のおきて」です。三重県のエリートコースは三重大学を出て、県庁か百五銀行に入ることだという笑える話も掲載されています。
三重県はイオンの発祥地でもあるので、今でもイオンと言わずジャスコと確かに言っていますね。さすがに元々の名前である岡田屋とは言いません。
三重弁も掲載されていて「机をつる」、「ゴミほり」は今でもよく使っています。「机をつる」とは机を運ぶこと、「ゴミほり」はゴミを捨てることです。
驚いたのが「味ご飯」。これって方言だったんですね。味ご飯とはいわゆる炊き込みご飯のことです。ふつうの白いご飯はその味がついていませんが、炊き込みご飯には味がつくので、しごくまっとうな呼び名なんですがねえ。そういえば大阪では聞きませんね。
炊き込みご飯を「かやくご飯」とも言いますが、これは加薬で、漢方薬の効果を高めるための補助的な薬をつけることが転じ、ご飯に具材を加えることから「加薬ご飯」というようになったそうです。
名古屋市新事業支援センターの送別会
吹上駅近くにある「九州男児のうまいもん OkiDoki吹上店」で2014年度の打上と送別会。
送別会の主賓は私です。(笑)
名古屋市新事業支援センターという都道府県等中小企業支援センターで小規模企業担当マネージャーを3年間つとめていましたが、この3月末で退任。3年前に名古屋市が小規模企業予算(窓口相談や専門家派遣など)をつけて、窓口相談のマネージャーを募集していたので応募し、ご縁があり3年間、マネージャを担当しました。役所の予算は3年が基本ですので、今年度で予算が切れ、終了です。
新事業支援という名前がついているので他の支援機関に比べ、創業相談が多かったのが特徴です。創業では基本的に銀行はお金を貸しませんので、融資を頼むのは日本政策金融公庫(創業融資)。融資が通りやすいように事業計画書のブラッシュアップのお手伝いを行い、開業に結びついた事業者も多いので、少しは名古屋市の活性化に寄与できたでしょう。関係者の皆さま、3年間たいへんお世話になりました。
3月だというのに雪
奈良のお水取りも始まったし、先週は暖かかったので、そろそろコートをクリーニングに出そうかと思ったら、今日は雪。
三重県産業支援センターで窓口相談が1件終わった後、紀伊長島の企業へ相談に行ってくれと言われていたので支援センターの車に同乗して出発。津は少し雪がちらつく程度で晴れ間も出ていましたが、津から松阪から尾鷲方面に南下するに従って吹雪のような状態に。
奥伊勢パーキングエリアで昼飯を食べていたら、ますます雪がひどくなり、なんで「南に行くのに雪が降るの!」とぼやきながら進んでいくと紀伊長島は晴れていました。
相談の帰り道、また三瀬谷あたりから雪がひどくなり、3月だというのに銀世界を楽しめました。これはラッキー。気温がもう少し低かったら雪で道路が凍結し、紀勢道路は通行止めになるところでした。
茅ヶ崎城跡
新横浜駅から地下鉄ブルーラインに乗ると、北新横浜駅を過ぎたあたりから地上に出て4つ目の駅がセンター南駅。センター南駅の東側にこんもりとした森が見えますが、ここが茅ヶ崎城跡。今は城址公園になっていて、近くの交差点の名前も茅ヶ崎城址入口になっています。
入口は北側に2ケ所あり、空堀、郭、土塁などが良好な状態で残っています。要所要所には丁寧な説明看板があり、これだけ整備されているのは、すごいですね。山城といえば藪をかきわけ、かきわけ土塁の中に入り、どうやらここらへんが主郭のようだと探しまわるのが定番ですが、茅ヶ崎城では看板で一目瞭然です。
城を造ったのは誰か分かりませんが、室町時代に相模・南武蔵を支配した上杉氏、その後を支配した後北条氏が関わっていたのは間違いないようです。小机城とは3.5km離れており、櫓から小机城が見えるので、小机城と一体で運用されたのでしょう。郭は西郭、北郭、中郭、東郭があり、帯郭も残っています。城址跡は公園になっていますので中郭ではキャッチボールや散歩している人がいましたが、城巡りをしている人はいませんでしたね。もったいないなあ。
写真の左側は中郭の土塁で真ん中の道が堀跡です。右の土塁が西郭になります。
横浜の古い地名は武蔵国都筑郡で、戦国時代は44の城がありましたが、遺構が確認されているのが寺尾城・茅ヶ崎城・小机城・篠原城の4城。とりあえず茅ヶ崎城・小机城・篠原城の3城を巡ることができました。