
リバーナ(イオン名張店)を過ぎ、名張大橋を越えたところの山裾にあるのが黒田の里で、裏山にあるのが黒田城。昨日、セミナー前に登ってきました。まあ、スーツ姿での山城登りはあまりオススメしません。
黒田の里から山上まで九十九折の山道が続いていて、山上にあがると石垣の跡がいくつかあります。これは後に建てられた愛宕神社跡の石垣のようで、黒田城自体はいわゆる土の城でした。
黒田城の主郭跡には櫓台跡が残っています。虎口がどこにあったのかはよく分かりません。主郭と北にある郭との間や北尾根との間に深い堀切が3本あり、これが見事。帯郭もいくつか点在し、遺構がよく残っていました。
黒田城は延木氏が黒田に築城したと伝えられています。天正伊賀の乱で織田信長方の筒井順慶に攻められ落城。今は木々で見えませんが織田信長軍と伊賀軍が最後の決戦を行った柏原城も見える位置に黒田城はあります。
名張でセミナー

午後から名張商工会議所4階会議室でセミナー。
「営業力・販売力をアップするための講座」の第2回目で、今日のテーマは「マーケティングって何?」。5フォース分析などフレームワークの説明と演習を中心とした講座。ちょこっと会議などで役立つアイスブレークについても説明しておきました。
実はセミナー全体の設計にワークショップなどで行う手法を導入しているのですが、今日はそのネタばらしもしておきました。
セミナーが終わってから、せっかく名張に来ているのならと昔からおつきあいしている名張の企業さんと飲みに行っておりました。商店街にある、なかなかお洒落な店で、BGMにジャズがかかっているなか、地酒をいただいてきました。
ウーン、明日から忘年会3連チャンなんですが、まあ、いいかあ(笑)
電車の連結作業

阪神・三宮駅から近鉄・奈良行き快速急行に乗ると途中の尼崎駅で前に4両を接続します。
これは尼崎-三宮間の各駅が6両編成を基本としているためで、近鉄難波から先の近鉄・大阪線は朝夕、10両編成となります。ただ近鉄・奈良駅は10両対応になっていないため大和西大寺駅で、また電車を切り離します。
近鉄では名張駅、大和西大寺駅、高安駅などで車両の接続、切り離しがよく行われていますので、乗客も慣れています。名張駅で接続する時も車内では「今から車両を接続しますのでお立ちの方は、ご注意ください」といったアナウンスが流れる程度。
ところが阪神が梅田と三宮を結んでいた頃は列車の接続、切り離しはなかったのに近鉄と相互乗り入れするようになってから、この接続、切り離し作業が入るようになったので、慣れておらず大変。
「今から列車の接続作業に入ります。列車は2度動きます。お立ちの方は揺れますからご注意ください。」
「列車は止まりましたが、もう一度、動きます。ご注意ください。」
「今からドアを開けますので、ご注意ください。」
近鉄の3倍ぐらい時間がかかってドアを開けています。
ホームでも「列車は今から2回、動いて接続作業に入りますから、お待ちの方は白線の中まで下がってください」とアナウンス。近鉄なんかさっさと列車の連結をして、すぐ出発しますので慣れとはいえ手際のよさは全然違いますねえ。
伊勢へ

IT窓口相談で伊勢商工会議所へ。
写真は伊勢商工会議所1階の様子です。たまには近鉄ではなくJRの「快速みえ」に乗って伊勢へ行こうとしたのが失敗。
津駅は定刻通りに出ましたが、高茶屋駅ー松阪駅間が強風のため減速運転となり、結局25分遅れで伊勢市へ到着。商工会議所横に新しくできた店でランチをと思っていたら時間ギリギリで、お昼はなしでした。(泣)
1食、抜いても全然やせませんが(笑)
忘年会第一弾

津駅前にあるアスト津で夕方から三重県中小企業診断協会の研究会。
いつもより早く終わって有志で忘年会を開催。大阪なら会合の後に飲み会がセットになっていますが、公共交通機関が発展しておらず、車社会の三重県では研究会が終わったら、そのまま散会が定番。さすがに12月だけは飲もうということになっています。
今日が忘年会の第一弾。12月はけっこう忘年会が続くのでふだんは節制しないと。
写真はアスト津入口に飾られてクリスマスツリーです。」
間違えて天守を壊された亀山城

関氏が亀山古城から移転した亀山城を、豊臣秀吉の部下だった岡本宗憲が新たな城主となり、天守、本丸、二の丸、三の丸などを整備。
ところが江戸時代の初め、丹波亀山城の天守を解体するよう命じられた堀尾忠晴が間違えて、伊勢の亀山城の天守を取り壊してしまいます。天守は再建されず、本丸北隅の三重櫓が天守の代用となりました。
本当のところは津藩に比べ、石高の少ない亀山城に天守はいらないと幕府が判断し、ただ地元の反対もあるので、間違えたということにしたようです。
亀山城は交通の要衝だったこともあり、城主がめまぐるしく変わるお城で関氏以来、9回も変わっています。
他のお城と同様に明治の廃城令によって、ほとんどの構造物が取り壊されてしまいましたが、亀山城には三重県下で唯一現地現存の城郭建築物である多聞櫓が残り、公開されています。建物はなくなりましたが縄張跡はよく残っています。堀が畑などになっていたりしますが、高低差がよく分かります。
発掘が行われ、二の丸帯曲輪や埋門が復元されていますが、公園の奥の方にあるので、ここまで見に来る観光客はほとんどいません。
名張藤堂家(名張城)

名張駅から5分ほど行ったところが、けっこうな高台になっています。この高台にあるのが名張藤堂家の屋敷。昨日、セミナー前に寄ってきました。
伊勢・伊賀をおさめたのが藤堂高虎ですが、養子に藤堂高吉がいました。もともとは織田信長の重臣・丹羽長秀の三男。藤堂高虎に子どがいなかったので秀吉が養子に斡旋したようです。
藤堂高吉は藤堂高虎と共に文禄、慶長の役や関ヶ原、大坂の陣と戦い続けました。高吉が高虎の後を継ぐはずでしたが、高虎に実子が生まれて、実子が継承することになります。つまり藤堂高吉は後継者から家臣の地位になってしまい、これがために津藩本家とはその後もいろいろと騒動が起きるようになります。この藤堂高吉が名張藤堂家の初代。
もともとは藤堂高虎が入るまで伊賀を支配していた筒井定次(筒井順慶の養子)の部下だった松倉重信が名張を領していて、この地に名張城を造りました。この名張城の跡に屋敷が作られ、発掘調査の結果、名張城の石垣跡などが残っています。
名張藤堂家の屋敷の一部しか残っていませんが、江戸時代の上級武家屋敷がそのまま残っている稀有な例になっています。
営業力・販売力をアップするための講座

名張商工会議所(名張産業振興センター・アスピア)でセミナー。
「営業力・販売力をアップするための講座」という名前のセミナーで全4回シリーズ。初日は、ホームページを活用したマーケティングのお話をしてきました。
セミナーで4時間しゃべるのはしんどいので、演習を3回ほどいれて休憩。受講者は様々ですが、なかには経営コンサルタントや税理士さんもいて同業者ですがなあ!(笑)。
次回はマーケティングをテーマにしたセミナーを行います。
名張商工会議所は名張駅から徒歩10分ほど離れているんですが、このあたりにあったのが西名張駅。伊賀上野駅から伊賀の町を走り、伊賀神戸駅との間を結ぶ伊賀鉄道が、昔は伊賀神戸駅から先があり、西名張駅までつながっていました。
ところが現在の近鉄が並行して走ることになったため残念ながら伊賀神戸駅から先が廃線になってしまいました。ところどころに廃線跡が残っているそうです。いつか歩かないと。
関地蔵城(新所城)

JR関駅構内に観光案内所があり、関宿巡りのマップをゲット。マップを見ると「西の追分」近くに城山という文字を発見。
城山って...「三重県の山城ベスト50を歩く」に出てきた関地蔵城(新所城)だ~あ~!
のんびり関宿を散策というプランを急遽、山城登りに変更。関宿の宿場町を抜けて、「西の追分」へ。すぐ近くに小山があり、これが城山。でも登り道が分かりません。地元の人に物流倉庫の裏から登れると聞いて、城山に登り石垣跡や郭跡を見てきました。もっとも帰ってから「三重県の山城ベスト50を歩く」の縄張図を見ると1/3もまわっていませんでした。こりゃ、またリベンジしなくては。
「西の追分」から東海道、大和街道が出ていますが城山はちょうど見下ろす位置にあります。古代の鈴鹿関時代には頂上に見張り台があり、鈴鹿関を守る部隊が城山に駐屯していたようです。戦国時代には関氏の関地蔵城がありました。関氏は織田信長の伊勢侵攻では一族の神戸氏などが和睦するなか近江の六角氏と組んで抵抗しますが、最後には降伏。関地蔵城は賤ヶ岳の戦いの前哨戦で秀吉方の蒲生氏郷と織田信孝方の滝川一益とで城の取り合いになりました。
関氏は伊勢平氏(清盛)から出た氏族で家紋は揚羽蝶。「天地明察」で和算の関孝和が出てきますが、もともとは内山氏で若い頃に関家に養子に入ります。この関氏の家紋もはじめは揚羽蝶。どうも伊勢の関氏の系統だったようです。
関西とは鈴鹿関の西のこと

関西の語源は関の西側という意味。関というのは不破関(関ヶ原)、鈴鹿関、愛発関(弁慶の愛発超えで有名)の三関のことで関宿には鈴鹿関がありました。ですので鈴鹿関の東側にある四日市、桑名、名古屋は古代では関東でした。
鈴鹿関がどこにあったのか長らく謎でしたが「西の追分」(東海道と大和街道の分岐点)ちかくにある観音山麓から西城壁跡が見つかりました。観音山から城山を通って鈴鹿川まで長い城壁が続いていたようです。古代の関は江戸時代の箱根の関のようなイメージではなく、ずっと城壁が続き、現在の関宿をすっぽり囲んでいました。
→ 亀山市史(鈴鹿関の再現動画)
「壬申の乱」の大海人皇子の時代には関宿には鈴鹿郡家がありました。壬申の乱の後に鈴鹿関が整備されます。
大海人皇子は吉野から逃れて、鈴鹿郡家までたどりついたところで、ようやく東国に入ったと安心します。伊勢国司が応援に出迎え、近江軍に対抗するために鈴鹿の道を封鎖します。ここで合流したのが近江京を抜け出してきた大津皇子。後に持統天皇の謀略で謀反の疑いをかけられ二上山に葬られる、あの大津皇子です。当時は9歳ぐらいでしたのでお供がいたとしても大変だったでしょう。