天下の城下町(大阪歴史博物館)
谷町四丁目にある大阪歴史博物館へ。エレベーターで10階まであがると奈良時代の難波宮の大極殿を原寸大に復元した空間へ。女官や侍従の等身大の人形が並んでいます。暗い中、モニターでは難波京のCGが映し出され、大極殿の前に官僚が整列。一番前に左大臣・橘諸兄が登場し、難波宮を都とする聖武天皇の勅命が宣せられます。
難波京・大極殿がだんだんと現代の姿に変わっていくと同時にブラインドが上がり、一気に明るくなります。眼下に広がるのは博物館前の難波宮史跡公園。全景が見られます。何回も見ているんですが、毎回、悠久の歴史が感じられます。
常設展を見てから、今回は特別展「天下の城下町 大坂と江戸」を見てきました。信長、秀吉、家康の城古地図などが展示されています。
信長-小牧城、岐阜城、安土城
秀吉-伏見城、名護屋城、聚楽第、大阪城
家康-江戸城
先日、岩波書店の「信長の城」を読んだばかりでしたので、小牧城の城下町図などは感激ものでした。聚楽第の黄金の瓦も展示。別に「大阪市の新指定文化財」というのをやっていて、難波京で見つかった日本最古の万葉仮名木簡が展示されていました。「はるくさのはじめのとし」という文字が書かれていますが、きっちり読めました。
信長、秀吉、家康と言えば、10年前に富士通ファミリ会東海支部のサイトに「郷土の三英傑に学ぶ」というのを連載していました。歴史モノを書いたのは初めてでしたね。
洲崎神社(名古屋)
プラネタリウムで有名な名古屋市科学館の近くにあるのが洲崎神社。
場所は若宮大通(100m道路)が堀川を渡るところにある新洲崎橋のたもとにあります。名古屋駅からも割と近く、御園座がそばにあります。860年頃の創建なので、めちゃくちゃ古い神社です。応天門放火の罪で大納言伴善男が流罪となる応天門の変が起きた頃です。
大昔、このあたりは入江で洲崎になっていました。つまり昔の海岸線。名古屋駅周辺には笹島、亀島などの地名が残り、少し離れたところには枇杷島、津島、長島があります。ですので大昔、名古屋駅も海の底。大雨が降ると洪水などで名古屋がボロボロになるのは必然ですね。
戦国時代には那古野城今川氏の家臣だった、中村氏の廣井城が神社の北側にあり、織田家と争っていました。神社の入口に廣井城跡と書かれていました。
名古屋城を築城する時に境内の一部が堀川になってしまいましたが、尾張藩御船手役所ができ、尾張、三河、伊勢、志摩の防備に尾張藩があたっていました。いまだとさしずめ海軍基地です。
リーディング産業展2013
四日市ドームで今日、明日とリーディング産業展を開催中。
写真は株式会社ユナイテッドワークスの北川 風太社長。ブースでプレゼン中です。北川社長はウェブコンサルティングを行う株式会社ユナイテッドワークスを高校卒業後に設立。現在、26歳のイケメン社長です。
午後は四日市商工会議所でIT窓口相談でしたので午前中だけ展示会を見に行きました。四日市ドームには近鉄四日市駅から無料シャトルバスに乗って9時半頃に到着しましたが寒い!
8時頃から暖房を入れたそうですが、ドームが大きいので暖房が行きわたるまで時間がかかります。寒いからコートを着たまま会場をウロウロしていました。
リーディング産業展、今年はやり方を変えて、中小企業の商談に絞ったせいかシャープやホンダなどの大手企業の出展や地銀各行の展示もありませんでした。大企業は複数ブースを使って展示しますので、例年に比べると大企業分だけブースが減っていました。
時刻表を調べる、調べない
名古屋市地下鉄・東山線は朝のラッシュ時、2分間隔で運転。東京のメトロ丸ノ内線はラッシュ時、1分50秒間隔になっています。
ラッシュ時でなくても山手線や大阪の環状線は少し待っていれば電車が来ます。東大阪に住んでいますが地下鉄で大阪都心に行けますので、時刻表を調べることはなく梅田なら40分ぐらい前に出たら間にあうなという感覚で電車に乗っています。
これが津あたりになると時刻表を調べざるをえません。名古屋線の近鉄・急行は基本的に1時間に3本で、0分、20分、40分のような固定ではなく、特急優先のため時間帯によって変則的になっていて調べていかないと20分以上、駅で待つことになります。時刻表を調べる、調べないの境目は私の場合、10分間隔ぐらいです。
これがJRで尾鷲へ行くような場合も、時刻表を調べません。あまりにも本数が少なすぎて覚えてしまうからです。津から尾鷲へ行き、帰ろうとする時、昼の特急を逃すと夕方の特急までありません。(笑)
初めて尾鷲へ行った時に帰りの時間を調べようと駅の時刻表を見て、「嘘だろう!」と思いましたね。素早く仕事をして昼の特急に間に合わせるか、話が長びいたら一層のこと夕方まで仕事ですね。(笑)イヤでも時刻表を覚えてしまいます。
もっともネットで簡単に時刻用を検索できる時代になったので、ここらへんの感覚はどんどん変わっていくでしょうね。そういえば高校や大学当時は平気で30分、1時間、友達としゃべりながら電車を待っていましたね。
高野山 朝の勤行
宿坊では6時30分から朝の勤行があります。
自由参加ですが、せっかくですので参加してきました。もっとも宿泊は1名だけですので、かぶりつきです(笑)。夜明け前の暗い本堂に、燈籠がボヮーと浮かび上がり、なかなか幻想的なのはよいのですが、870メートルの山の上ですので、寒いですなあ。
住職は去年、高野山大学を卒業し、今年初めて宿坊で冬を越す若い方で、本当に寒さがきついですなあ。と言っておりました。(笑)毎朝、5時半には起床、同級生の中には冬がつらいので坊主を辞めた人もいるそうです。成福院の住職は世襲ではなく、スカウト制になっているそうです。
成福院では朝食でビデオ鑑賞できます。(笑)なんでも先々代の住職がビデオ好きで16ミリでいろいろ撮影。昭和初期の難波駅や南海線、今はなくなったロープウェイなどが映っていました。鉄道好きにはたまりませんなあ。絶対に南海が買いにくるような貴重な内容。成福院で泊まった人向けのサービスなんだそうです。
この先々代の住職、ビルマで僧の勉強をしていましたが、インパール作戦に参加する兵士なども見ており、悲惨な戦争を体験したことからビルマ戦没者を祭るビルマ塔を高野山に建立しています。それで成福院の隣に立派な塔が建っているんですね。中にはビルマの竪琴もありました。地下は八角の地下道を巡る場所で真暗。罪とけがれが浄められるということで巡ってきました。
六根清浄できたので、さあ飲もうっと!
高野山へ
企業診断研究会
夜は津駅前にあるアスト津で三重県中小企業診断協会の「企業診断研究会」。
朝から伊勢の企業へ行っており、帰りに参加してきました。本日の参加者は13名。
講師はコマダ商事の駒田さんで、テーマは「印刷業の外部環境変化と今後の展望」です。印刷業の業界構造などについて興味深いデータをまじえてお話しいただきました。
統計のよると用紙使用量は変わっていませんが、印刷物の出荷額は落ちています。高性能なプリンターの登場などで内製化の動きがすすみ、従来は印刷屋さんに出していた仕事が家や企業内でやっています。そういえば三重県産業支援センターも名刺印刷専用機を購入し、内製化しています。毎年、異動が多く、組織名もよく変わるので自ら印刷機を持った方が安いからでしょう。
三重県内の市別出荷額を見ると松阪市が半分近くを占めています。凸版印刷の松阪工場と新日本工業という大手企業があるからのようです。昔は津市の出荷額も多かったのですが官公庁の印刷需要が減少したこともありシェアがだいぶ減っています。意外に名張市も多いですね。
北条氏の城 小田原城
石垣山一夜城から麓まで降りて、早川という名前の川を渡ると小田原城の総構えがあった場所。
秀吉は最前線のすぐ近くに城を作ったんですね。一夜城から歩いて30分ほどで麓、そこから10分ほで総構えです。麓の最前線には山崎の合戦、北ノ庄攻めにも参戦した堀秀政が布陣していましたが病死してしまいます。陣をひいていた麓の海蔵寺にお墓があります。
小田原城の総構えは2里半(約 9 km)と長く、空堀と土塁で城下町全体を囲む長大なものでした。今はほとんど痕跡がなくなりましたが、早川口には二重土塁が残り、当時の総構えがどんなものだったか実感できます。土塁はけっこう高く、町中を取り囲んでいました。西洋や中国の城と変わりませんね。この総構えで攻めてきた上杉謙信や武田信玄を撃退。
小田原城では城の復元が進んでいて常盤木門や馬出門が出来ていました。江戸時代の雰囲気が楽しめます。天守閣はコンクリート製ですが、一番上に上がると目の前にあるのが雄大な太平洋と箱根の山々、そして一夜城のあった石垣山。一夜城跡を見ると車ぐらいの大きさなら動いているのも充分に見えます。北条氏にとってはめちゃくちゃプレッシャーだったでしょうね。
鉄壁の総構えと一夜城のプレッシャー、こりゃ小田原評定になるはずです。
石垣山一夜城
東京駅から東海道本線のホームへ。熱海行きの普通電車に乗るんですが、やってきた電車が15両もありました。新幹線並みですね。さすがに東京はすごいなあ。
JR早川駅で下車。ここから農道なんですが国道よりきれいな道沿いに30分ほど登ります。途中には参陣した武将の紹介があり、楽しめるようになっています。小田原攻めが行われた石垣城へ通じる道がそのまま農道になったようです。
車で上まであがっていく横をテコテコ歩きます。なかにはスポーツ自転車で上がる猛者もいました。
頂上近くにあるのが石垣山一夜城。以前は笠懸山という名前でしたが秀吉が総石垣の城を築いたことから「石垣山」と呼ばれるようになりました。秀吉が工事中に白壁にみたてた白紙を貼った城を造り、周りの木を切ったので一夜で城ができたと北条氏が驚いたところから名づけられましたが、たぶん、そんなことはなく工事をしている所を見せながら心理戦に持ちこんだのでしょうね。
目の前に小田原城が見えますが、当時は総構えになっていたので攻めるのはかなり大変。そこで支城を各戸撃破し、小田原城からいつでも見える石垣山にその頃、関東にはなかった総石垣の城を築き、威圧したのでしょう。
本丸跡や曲輪跡などがきれいに残っていました。おすすめは一番奥にある井戸曲輪で、見事な石垣が残っていました。奥までくる観光客はほとんどいませんでしたね。
ああ、いい運動だった!