徳川家康が攻め落とした丸根砦

丸根砦
大高城がのぞめる小高い丘の上にあるのが丸根砦。鷲津砦と共に織田信長が大高城を封鎖するために築いた付城です。
砦を守っていたのは佐久間盛重。松平元康(後の徳川家康)が率いる岡崎勢に攻め寄せられ、佐久間盛重は清州城の織田信長へ急使を送ります。
そして、「人間五十年、下天のうちをくらぶれば夢幻のごとくなり」と敦盛の一節を舞い、茶漬けを食べながら、「螺(ほらがい)を吹け、具足をよこせ」と映画やドラマでよく描かれる信長が出陣していくシーンとなります。
清州城を飛び出した信長は熱田神社で兵がまとまるのを待ち、大高方面へ進軍。やがて信長の目には丸根砦と鷲津砦の陥落を告げる二筋の煙が上がるのが見え、善照寺砦に向かいます。
佐久間盛重らが玉砕した丸根砦ですが、今は住宅地の中に郭跡などが遺構として残っています。もっともマニア以外には単なる土の広場なんですが。

家康が捕虜生活を脱した大高城

大高城
日が長くなってきたので、名古屋市新事業支援センターでの窓口相談が終わってから東海道線に乗って大高城跡に行ってきました。
住宅街の中にあるこんもりとした小山が大高城跡。「大高城跡公園」という矢印のついた小さな看板の所を曲がり民家と民家の間を通る細い路地を登ったところにあります。看板がなければ、絶対に気づきません。
大高城は桶狭間の合戦の前哨戦が行われたところです。大高城は今川義元が奪った城で尾張の最前線。織田信長は周りに砦を築いて対抗します。戦国時代は城のすぐ近くが海岸線でしたが、この海からの補給を砦網で塞いでしまい大高城は孤立してしまいました。
そこで今川義元が大高城を救援するために起こしたのが桶狭間の合戦の発端と言われています。この時、徳川家康が大高城に兵糧を入れる役目を命じられ、丸根砦を落として、見事に兵糧入れに成功します。
やがて大高城へ届いたのが今川義元が織田信長に敗れたという知らせ。撤退して岡崎城へ向かうことになり、家康にとっては、長い捕虜生活から開放され新しい門出となった場所となりました。

日本一短い商店街にある福助

福助
日本一長い商店街は天神橋筋商店街、反対に日本一短い商店街も大阪にあって、それが肥後橋商店街。1分もアーケードを歩けば、商店街を抜けてしまいます。
この商店街にずっとあるのが福助。昼は定食や丼のお店で、夜は居酒屋になりますが、基本的に料理はおまかせになります。東京から知り合いが出てきたので、パソコン通信時代からの仲間が集まって久しぶりに福助で宴会。パソコン通信時代からよく福助を利用していました。
お店は普通の定食屋さんなんですが、宴会では希望にあわせて変わった鍋が出たりします。今回は本当のおまかせで、何が出てくるか分からず、いろいろな料理を楽しめました。
ここの名物がお店のおばちゃん。このおばちゃんに会うために通う常連も多いお店です。

2014年度版 中小企業白書

中小企業白書
官公庁が出す白書の中で一番よく売れている白書です。確かに中小企業の現状がどうなっているのかよく分かる白書でコラムも充実しており、読んで面白い内容になっています。
もっとも中小企業診断士試験の1次の科目に中小企業経営・施策があり、中小企業経営はこの中小企業白書からよく出ますので、受験生は必読です。受験者数が2万名ほどですので、これだけで2万冊ちかくは売れます。(笑)
中小企業白書ですが、今年は中小企業や小規模事業者の笑顔で表紙を埋め尽くそうというプロジェクトが行われました。もちろん水谷IT支援事務所も小規模事業者なので応募。そして6,666名の顔写真で作られた表紙ができあがりました。一覧に名前があることは確認しましたが、この表紙から顔写真を探すのは大変だなあ(笑)

建設業なんでも相談会 事例報告

三重県中小企業診断協会
三重県中小企業診断協会で2ケ月に1回行っている建設業経営研究会がアスト津であり、参加してきました。
三重県中小企業診断協会は会員数が100名ほどで、大阪のようにたくさんの研究会の立ち上げは人数的に難しいため、現在2つの研究会を2ケ月に1回開催しています。私は両方の研究会に出席していますので結局、毎月、研究会があります(笑。)時間は18:30-20:30で、今日は名古屋市新事業支援センターの窓口相談が終わってから津へ戻りましたので、遅刻して参加。
建設業経営研究会では昨年度、三重県各地で開催した建設業なんでも相談会の事例報告を持ち回りでやっています。今回は津と伊勢エリア。相談を担当した駒田さんが講師となり3企業の事例報告。もちろん企業名などは分からない形での報告です。
実は私も一緒に相談を担当したんですが、完璧に忘れています(笑)。ですので聞いていて、なかなか新鮮でした。
3つの支援機関で窓口相談していると相談件数も多いので、1ケ月前の相談はほぼ完璧に忘れています(笑)。2週間前の相談もあやしい状況で、1年前の相談なんて忘却の彼方ですねえ。

夏越の祓

夏越の祓
上半期がまもなく終了します。
半年の罪や穢れを祓い、残り半年の無病息災を祈願する神事が夏越の祓。今年の「夏越の祓」は6月30日(月)に行われますが、この日は名古屋にいますので、事前に河内一ノ宮・枚岡神社へ行き、家族の名前と生年月日を紙の人形(ひとがた)に書き、納めてきました。
夏越の祓って全国的な行事だと思っていたら、関西など西日本が中心なんですね。701年の大宝律令によって宮中の年中行事に定められたそうで、1300年も続く伝統行事です。
この時期、関西の神社へ行くと境内に茅の輪があり、この茅の輪を左に1回、右に1回、また左に1回まわってくぐりぬけます。くぐりぬける時に拾遺和歌集の歌を歌います。
「水無月の 夏越の祓するひとは ちとせの命 延ぶといふなり」
京都では和菓子の「水無月」という白の外郎生地に甘い小豆がのった和菓子を食べます。小豆は豆まきでも使われるので、魔払いの意味があります。

一宮神社(神戸)

一宮神社
三宮神社、二宮神社の次は一宮神社。
一宮とは、地域の中で最も社格の高い神社で、例えば東大阪(河内国)は枚岡神社です。神戸は摂津国なので一宮は住吉大社になります。
神戸の一宮神社はこの一宮とは違って、生田神社を囲むように点在している生田裔神八社(いくたえいしんはちしゃ)の一番目です。場所は三宮駅から北野(風見鶏の館など異人館街)へ行く途中。北野坂を少し上がり始めたところにあり、近くには神戸電子専門学校があって学生がたくさん歩いています。
ひょうご産業活性化センターの入っているサンパルから一宮神社へは歩いて10分ほどですので、昼休みに行って帰ってきました。小さな神社なんですが、酒樽が並んでいて、さすがは灘の地元ですね。
残りは四宮神社~八宮神社がありますが、三宮駅から、けっこう遠いので、こっちはしばらくおあずけ。次は兵庫城跡を見にいかなくては。

ワードプレスへブログを引っ越し

WordPress
MovableTypeでブログを運用していたのですが、調子が悪くなりとうとうログインもできなくなったのでWordPressへブログを移行しました。
サブドメインで複数のブログ運用ができるとあり、やってみたのですが、これはなかなか難関。結局、あきらめて単独のブログにしています。

23歳で散った木村重成 若江の戦い

木村重成
若江城のあるあたり一帯で大坂・夏の陣「若江の戦い」が行われました。
若江城は大坂城築城に伴い城が破却されていたので、城はなく、当時は湿地帯だったようです。大坂・冬の陣の和睦条件で大坂城の堀は埋められていたので豊臣側は籠城できず野戦するしかありません。
大阪城の東部で行われたのが若江の戦い。1615年なので、400年ほど前になります。井伊直孝、榊原康勝らを迎え撃ったのが木村重成。生年が分かっていませんが、当時23歳だったという説が有力です。大河ドラマ「真田丸」ではイケメン俳優が演じるんでしょうね。
木村重成の母は豊臣秀頼の乳母で、秀頼の小姓から重臣となりました。冬の陣が初陣で、今福の戦いで佐竹義宣軍を窮地に追い込み、敵味方にその名前が知られました。
若江の戦いで木村重成は奮戦し、藤堂隊、井伊隊に大打撃を与えましたが、ついに討ち取られてしまいました。首が家康の元へ届けられましたが、頭髪に香が焚きこめてあり、その覚悟を感嘆させたという逸話が残っています。
写真は蓮城寺にあ木村重成陣所跡で、付近には若江木村通という交差点があります。

若江城

若江城
織田信長の臣下だった太田牛一が書いた「信長公記」によく登場するのが若江城。
難波から近鉄奈良線に乗ると途中に若江岩田駅があります。ラグビーで有名な花園の手前にあり、普通しか止まりません。若江岩田駅から商店街を抜けて、ずっと南に行くと若江城跡があります。遺構はなにも残っていなく碑がたっているだけ。
若江城は南北朝時代に北朝方の有力な守護大名である畠山基國(もとくに)が対南朝の防衛拠点として築城。大坂城の築城の時に破却されました。よく戦乱に巻き込まれ河内をおさえるには若江城攻略がかかせませんでした。足利義昭が京を追放された時も、まず若江城に入ります。織田信長が石山本願寺と戦ったいた時に織田方の前線であったのが若江城で、織田信長もよく滞在していました。
城下町には教会が建っていて旧字名に大臼(だいうす)という所がありゼウスからきているようです。遺構は残っていませんが、堀のかわりだった川は今も流れています。若江という名前は大昔にあった河内湖の港からきているのでしょう。