地元の中日新聞を見ると熊野市にある花の窟神社で縄掛け神事が行われたという記事が出ていました。
花の窟神社は熊野灘に面した海岸沿いにある神社で、ご神体は「いざなみのみこと」と「かぐつちのみこと」。神社に拝殿はありますが、ご神体はそびえたつ大きな岩になっていて、ほとんど崖。
日本書紀によると、火の神である「かぐつちのみこと」」を生むときに陰部を焼かれて「いざなみのみこと」が死んでしまいます。「いざなみのみこと」が埋葬されたのが熊野の有馬村。季節の花を供えて祭った岩屋なので、花の窟神社と呼ばれています。
夫の「いざなぎのみこと」は死んだ妻「いざなみのみこと」を追って、根の堅州国(ねのかたすくに)に行くのですが、変わりはてた妻の姿に逃げ出します。この時に逃げた道が黄泉比良坂で出雲にあると言われています。一説には、根の国は熊野にあったという説もあります。
熊野は神武東征の土地でもあり、古代から聖地ですね。最近はサッカーの聖地にもなっていますが。写真は熊野灘に面する獅子岩です。
開業50周年は新幹線だけじゃない
■桔梗が丘駅 開業50周年
新幹線・開業50周年が話題になっていますが、名張市にある近鉄・桔梗が丘駅も開業50周年です。地元の中日新聞に掲載されていました。
大阪・上本町から青山町駅まで快速急行が出ており、桔梗が丘駅までは1時間強。桔梗が丘は大阪のベッドタウンとして開発され、たくさんのビジネスマンが近鉄で通勤しましたが、定年退職などで通勤定期の売上ががたっと減っています。
■田原本線も50周年
JR新王寺駅から西田原本駅までの路線が近鉄・田原本線。本線ではなく田原本・線です。大和八木から京都方面へ向かうと最初に急行がとまるのが田原本駅。橿原線と田原本線とは接続しておらず、田原本駅から改札を出て西田原本駅まで歩かないといけません。田原本線は近鉄ではなく、もともとは大和鉄道でした。1961年に信貴生駒電鉄へ合併されます。
■生駒線も50周年
信貴生駒電鉄は生駒駅と王子駅を結んでいる線。もともとの鉄道会社が異なっていたので王子駅に両方の線が乗り入れていますが、接続されていません。王子駅の西と東にそれぞれ改札があり、歩かないといけません。ほとんどの乗客は王子駅からJRに乗り継ぐので、それほど影響はないようです。
この信貴生駒電鉄が1964年10月1日に近鉄に吸収合併されて、現在の近鉄・生駒線になりました。つまり田原本線、生駒線とも近鉄になってから50周年になります。
1963年10月1日に近鉄が奈良電気鉄道と合併したので、昨年は近鉄京都線・誕生50周年となりました。それにしても10月1日ばかりに近鉄は合併していますなあ。
Yahoo!カテゴリーが終了
Yahoo!カテゴリーが今年末(2014年12月31日)で終了します。ただしアメリカYahoo!の話で、日本のYahoo!は継続する模様。
Yahoo!カテゴリーとは分類のことで図書館で本を探す時に「総記」→「書誌学」と細分化して本を探せると同様に膨大なサイトを分類し、カテゴリーをたどっていくことでサイトに効率よくたどりつけます。私の個人HPも教育カテゴリーに登録してもらっていました。
スタンフォード大学の博士課程に在籍中のジェリー・ヤンが、友人のデビッド・ファイロと、ホームページの検索サービスを趣味で始めたのがYahoo!の原型です。そして、1993年頃から「ジェリーのWWWガイド」というサイトを作り始めます。ホームページのアドレスを単純に並べるのではなく分野ごとに整理し、リンクで飛ぶことができました。これが使いやすいと口コミで評判になり人気サイトになっていきYahoo!を創業します。
サイトが増えるに従って、現在のGoogleのようなロボット型検索が登場しますが精度は、それほどでもなく質を求める時にYahoo!カテゴリーは便利でした。ただし人間が介在しますので、爆発的に増えるサイトに対応するのは難しくなったのとGoogleの精度があがったことがあり、今回の決断になったのでしょう。写真はYahoo!がはじまった頃(1995年10月)のサイトです。
日替配達弁当戦争
名古屋市新事業支援センターが入っている名古屋市中小企業振興会館(吹上ホール)の周りには飲食店が少ないため、職員の多くは弁当持参かコンビニで弁当を買ってきます。ほかに日替わり弁当の配達もあります。
以前は「お弁当の益久」と「ミノヤランチサービス」が名古屋市新事業支援センターに配達していました。このミノヤランチサービスは、名古屋などを中心に1日4万食も配っています。有名な日替配達弁当の玉子屋(東京)が1日あたり6万5千食ですので、おそらくそれに続く規模ですね。
350円×4万食×25日×12ケ月=42億円
ホームページには年商43.9億円とあります。土曜日が減るのと他にもケータリング事業などもやっているはずですので、大体この数字になるのでしょう。
益久とミノヤランチサービスの2社が入っていたのですが、「お弁当のおおしま」が営業に来て、弁当が試食できますって言葉で、ころっと担当者が切り替えてしまいました。個人的には益久がよかったんですが(笑)もっとも毎日、2人ぐらいしか頼まないので「お弁当のおおしま」にとっては少し効率が悪いですね。会館のほかの部署も頼んでいるのでついでです。
お弁当のおおしまのホームページを見ると「弁当試食の申込」というバナーがあり、既存業者の置き換えツールとしては、なかなか有効なやり方です。
椿井城
椿井城(つばいじょう)
近鉄生駒線・竜田川駅の東側にある山を登ったところにある山城。嶋左近の居城だったのはという説がありますが、はっきりしたことは分かっていません。筒井氏に備えるために松永久秀が築いたという説もあります。
山城へ登る道の麓に椿井という名前の井戸があります。蘇我や聖徳太子が物部守屋を攻める時に苦戦し、この地域(平群)の神手将軍が戦勝を祈願して、椿の杖をついたところ泉が湧き出します。これを聖徳太子や兵士が飲んだところ士気が上がり、守屋との戦いに勝てたということです。
平群からだと暗峠超えで物部の本拠地である東大阪へ攻め込めまめますし、山の向こうは斑鳩ですから、この地から攻めた部隊もあったのでしょう。
椿井城ですが、山城では珍しく地元有志によって整備されていて、とっても見やすくなっています。ただし北郭は保存のため見学ができず、見学できるのは南郭だけです。かなり大きな山城なので見応えは十分。堀切などもしっかり残っています。山上の郭からは松永久秀の信貴山城がすぐ近くに見えます。
ひらおか薪能
「ひらおか薪能」を見に枚岡神社へ。奥さんと毎年行っています。
諸説ありますが能を作り上げた観阿弥は伊賀の人で、お母さんが河内玉櫛荘(東大阪市)出身。大和猿楽の一座に所属していました。実は楠木正成の姉か妹だと言われていますので、そうなると観阿弥は正成の甥になります。そんな謂れもあり、河内一ノ宮である枚岡神社で薪能が行われ、今年で第23回目。
狂言と能が行われますが能は「鵺(ヌエ)」。源三位頼政の鵺退治をテーマにしています。近衛天皇の時代に、大極殿の屋根に夜ごと鵺(化物)があらわれ天皇は病気になってしまいます。そこで源頼政が呼ばれ、鵺は弓で射抜かれ、退治されました。その鵺が亡霊になって現れる話。
昨年の「ひらおか薪能」が「頼政」。鵺退治した源頼政が平家に敗れ、平等院の庭に扇を敷いて自害したのがテーマになっています。もちろん亡霊として現れるのは源頼政。2年続けて、源頼政がテーマでした。(笑)
源頼政が自害した場所は「扇の芝」と呼ばれ、平等院を入ったすぐ左手にあります。「扇の芝」の案内板もあるんですが、何もない広場ですから、そんな所へ行く観光客はまずいません。歴史好きか能好きだけでしょうね。
ビジネスプラン発表会2014
名古屋駅前にあるウインクあいちでビジネスプラン発表会。
あいち産業振興機構&名古屋市新事業支援センターの共催で、それぞれの機関で選抜された6社によるプレゼンです。
【名古屋市新事業支援センター】
ブレーンコンピュータ株式会社
アロマスター株式会社
株式会社ヘルスケアシステムズ
【あいち産業振興機構】
ニットナゴヤ
株式会社シード
株式会社ゼットネット
私はデジタルサイネージのプレゼンをされたブレーンコンピュータさんの担当でコーディネートをしておりました。会場は最初から最後まで、人で一杯で立見が出るほど盛況。プレゼンから表彰式までずっと、東海テレビさんが取材に来ていました。
嶋左近のお城 西宮城(生駒郡)
西宮と言っても兵庫県ではなく奈良県生駒郡平群町西宮にある城跡。
生駒駅から単線&ワンマン運転の近鉄生駒線に乗って、平群駅と竜田川駅のちょうど間ぐらいにある平群中央公園に城跡があります。城は小高い丘の上にありましたが、今は公園になってしまい遊具がおかれ、家族連れでにぎわっていました。ただ西郭の土塁や主郭と副郭の間のくびれの部分など遺構が一部残っています。西郭は西宮古墳をそのまま郭に使っていました。戦国時代によく古墳を城にしていました。
谷の向こう側に下垣内城がありましたが、こちらも公園化のよって城の遺構は皆無になっています。このあたりを支配していたのが嶋氏という国人。あの嶋左近の一族です。筒井氏に仕えていましたが、石田三成からのヘッドハンティングを受け、それも三成の禄高の半分を与えるという破格の待遇。意気に感じた嶋左近は三成に仕え、「治部少(三成)に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山(城)」と言われます。三成は豪放磊落だったようで大河ドラマで描かれる姿とは、だいぶイメージが違います。
関ヶ原の戦いで三成軍として華々しく戦った嶋左近。最期の奮戦ぶりは東軍諸将のあいだでも語り草となりました。その嶋氏のお城です。
増田氏城(伊賀)
上野市民病院がある丘の南端に増田氏城があります。民家の横を通って、少し登ると城の入口。写真は増田氏城の主郭から狭間城・北の城・城山城方面を見たところで、向こうに見える丘の端にあります。狭間城・北の城・城山城の後に増田氏城へも行ってきました。
増田氏城は、西郭、副郭、主郭、東郭からなっており、めちゃくちゃ大きなお城。郭を大きな土塁が巡っていて高さは10mもあり、なかなかの迫力があります。城の中の竹藪だらけで、さすがにスーツ姿では土塁にあがるのがやっと。郭の中に入るのはあきらめて土塁の上をずっとめぐっておりました。一角に墓があり、城を作ったと言われる増田氏の墓碑が見えます。詳細は不明で、これだけ大きな城を土豪一人で作れるわけもなく、伊賀の土豪が協力体制で作ったのでしょう。
伊賀天正の乱では伊賀軍が増田氏城にたてこもり信長軍との戦いになったようです。後で調べると、すぐ近くに中森氏城という小さな城があり、こっちは見逃してしまいました。機会を作って、また行かなければ。
狭間城・北の城・城山城(伊賀)
伊賀鉄道・猪田道駅の直ぐ近くにある北側の丘に狭間城・北の城・城山城と呼ばれる三つの城があります。
昨日、上野商工会議所でのセミナーが夜の開始でしたので、その間に城に登ってきました。3つの城ともすぐ近くで、比高も高くないので、すぐ登れます。誰の城なのか分かっていませんが猪田道駅近くに依那古神社があり、ここが小泉氏館跡でした。
小泉氏は伊賀の土豪として丸山合戦や伊賀の乱に参加しており、依那古神社のすぐ近くの城ですので小泉氏の詰城ではないかとも言われています。
城といっても単郭で周りを土塁で囲んだ城。まず入り口にある城山城に入ると竹藪の中に土塁がありました。北の城は四方を巡る土塁と虎口跡が、ほぼ完存していますが竹藪がすごくって、土塁に登るのがやっと。
狭間城も同じかなと土塁をえっちら登ると郭全体の竹藪が刈られていて、竹藪が残っている虎口以外が一望できます。これだけ土塁がはっきり見える城はなかなかないですね。内側の郭からの高さは5メートルほど、外側の空堀からですと8メートルほどあり、土塁が完存していました。狭間城の土塁にとりつくまでは少し大変ですが、なかなかおすすめの城です。スーツ姿で行くのは、なるべくやめた方がよいでしょうね。(笑)