新入社員のためのメールマナー

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    駅などで、まだまだ着慣れないスーツ姿の若者を見かける季節となりました。入社式も終わり、ちょうど研修が始まったところでしょう。 

    電話のとり方、名刺の渡し方などは研修で習いますが、意外と実施しないのがメール研修。会社への問い合わせでメールの比重が増えていますが、研修をやっていない企業がほとんど。結局、我流のメールを出してしまうことになります。 

    社会人の第一歩を踏み出したフレッシュマンには、学生時代と違うビジネスの世界が待っています。取引先に出すメールは友人へ出す携帯メールなわけにはいきません。宛名や挨拶など、注意しないといけない点が多々あります。 

    というわけで4年ほど前に書いた新入社員向けのメールマナーの記事なんですが、このシーズンになるとよく読まれています。 

    ▼新入社員のためのメールマナー 
    http://allabout.co.jp/gm/gc/298238/

水谷IT支援事務所 上場のお知らせ

どこでもドア
どこでもドア

                             2014年4月1日

 
各 位
 
        「水谷IT支援事務所」上場のお知らせ
 
 水谷IT支援事務所は、本日、東大阪証券取引所JASDAq市場に上場いたしましたので、お知らせいたします。
 
■「どこでもドア」の開発に成功
 水谷IT支援事務所ではコンサルタント業のかたわら、瞬間移動装置(仮称:どこでもドア)の開発に取り組んでおりましたが、ようやく開発にめどがつきました。そこで「どこでもドア」の本格生を行うため上場を決意しました。主幹事会社はマイドオオキニ証会社にお願いしております。
 
■近畿の山城に「どこでもドア」を設置
 開発した「どこでもドア」をまずは近畿の山城を中心に設置します。痛風などで歩けない方、年齢的に山登りはムリという方が気軽に山城を楽しめるよう主郭近辺に設置します。「どこでもドア」は現在のところ山城巡り以外の使い道は考えておりません。
 
設置を予定している山城は
 
 高取城(奈良県)   日本三大山城の一つ
 芥川山城(高槻市)  飯盛山城に移るまで三好長慶が居城
 飯盛山城(四条畷市) 三好長慶の居城で、飯盛山城で病死
 信貴山城(奈良県)  松永久秀の居所。信長に攻められ爆死
 滝山城(神戸市)   赤松則村の居城で六波羅軍を撃退
 
 なお、高取城では「どこでもドア」を本丸以外に二ノ門跡にも設置します。飛鳥から運ばれた猿石をぜひお楽しみください。
 
 「どこでもドア」は近畿から全国の山城に拡げていきます。これで藪コギしなくてもすみますので、山城ファンの皆さんはぜひお楽みに。今後とも水谷IT支援事務所をよろしくお願いします。
 

フランシーヌの場合

今日は「三月三十日の日曜日」。
と聞くと思い出すのは「フランシーヌの場合」。日経新聞の「春秋」に載っていて、そういや今日は3月30日の日曜だなと思いだしました。昔、流行った歌です。
“フランシーヌの場合は あまりにもおばかさん 
 フランシーヌの場合は あまりにもさびしい 三月三十日の日曜日 
 パリの朝に燃えたいのちひとつ フランシーヌ”
事件が起きたのは1969年3月30日。ベトナム戦争とビアフラ戦争の抗議のためパリで一人の女性・フランシーヌが焼身自殺。この事件から生まれた歌が「フランシーヌの場合」で、歌っていたのは新谷のり子さん。
安保闘争など学園紛争華やかし頃で反戦歌の一つとして歌われました。私は世代的には少し後なんですが、歌はよく知っています。他にもザ・フォーク・クルセダーズの「イムジン河」や森山良子の「さとうきび畑」もよく歌われていました。
ベ平連と言っても、今や死語でしょうね。
▼YouTubeに「フランシーヌの場合」がありました。
http://youtu.be/2dah_5_6gPs

AllAbout「企業のIT活用」12周年

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本日、3月20日はAllAbout「企業のIT活用」がスタートしてちょうど12周年。
2002年、スタート当時の名前は「企業のIT導入」。株式会社オールアバウトはリクルート・アバウトドットコム・ジャパン(RAJ)という長い会社名で1年前の2001年からAllAboutというサービスが始めていました。ちょうど専門学校の教員を辞めてフリーで仕事をしている頃で、たまたま「企業のIT導入」のガイド募集を見つけ、「ネットでできる仕事やし、これええやん!」と応募。当時は3次ぐらいまで試験があってなんとか合格し、サイトをオープン。あの頃は記事だけでなくジャンル別リンク集も作らないといけなかったのでリンク許諾の確認などオープン準備は大変でした。
サイトをオープンしてからは週1回、メルマガを書き、ほとんど毎週にわたって記事を書く生活がずっと続き、おかげで筆力はだいぶ鍛えられました。現在、累計ガイド記事は350本。もっとも昔、書いた記事はきれいさっぱり忘れています。(笑)2005年4月にサイト名が「企業のIT活用」へ変更となり、今に続いています。
ガイドには編集者がつくのですが長年、ガイドをやっていると転職したり、辞めて起業したりと編集者が変わっていきます。最近は担当替えによる変更が多いのですが、だんだん若くなる傾向にあります。それだけ、こちら側が歳をとったということなんですが。現在の編集者って何代目かなあ。

北田原城(生駒市)

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    生駒駅北口1番のバス停から北田原行に乗車。1時間に1本出ています。下田原で降りて5分ほど歩いた集落の横にあるのが北田原城です。 

    北田原城と言われていますが本来の城の名前は伝わっていません。坂ノ上丹後守の城と言われていますが坂ノ上丹後守が誰なのか分かっていません。 

    北田原城は屈折する尾根上に郭が並ぶ連郭式で見応えがあります。大手道を歩くと郭に出ますがかなり広い郭で、大峰山の祠があります。ここから上にあがっていくと堀と土橋があり、この土橋がなかなか見事。土橋から急坂になっていて上がると主郭に入れます。おそらく虎口だったのでしょう。 

    堀切で区切られた隣の郭には送電線の鉄塔が建っています。さらに郭が続いていて、かなり広い城になっています。郭の配置は伊賀上野の城氏城に似ています。 

    北田原城は国道163号線と168号線が交差する所にあり、国道163号線は伊賀から大阪へ通じる道で168号線は奈良の南から交野へ通じる道で交通の要衝になります。街道に見張る城だったのでしょう。写真は郭から見た国道です。 

    田原城からも近く、連動して街道を抑えていたのかもしれません。

さらばWindowsXP

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WindowsXPのサポートがいよいよ2014年4月9日に終了します。実はとっても長命なOSでした。
■2つのOSを統合して誕生
WindowsXPが登場したのは2001年。小泉純一郎が首相になった年で、映画「千と千尋の神隠し」が放映された年です。そういえば2000年問題もありました。
それまでのWindowsには2系統があり、Windows1.0からWindows3.0、Windows95、Windows98と発展していった系統で昔の16ビット時代を引きづっていました。もう一つはWindowsNT3.1からndows2000までの系統で、こちらは32ビットのOSとして誕生しています。2つのOSを開発していくのは大変だったので、統合され誕生したのがWindowsXP。
ところがコンピュータウイルスが新たな脅威になっていきます。2003年にはWindowsXPのセキュリティーホールをついたBlasterウイルスが登場。ネットワークに接続するだけで感染するかいなウイルスで感染者が続出。それまでは自分でWindowsアップデートをしていましたが、ある程度、コンピュータ知識が要求されるためアップデートをしているのは上級者だけで般の人はほったらかし。これが被害を広めてしまいました。この後、マイクロソフト社では手動ではなくWindowsアップデートを自動更新するようになり、現在に至っています。
2007年にWindowsVistaが登場、2009年にはWindows7が登場。発展してきたWindowsですが、いまだにCP/Mと呼ばれる最初のマイコンキットで登場したOSをひきづっています。それがドライターです。ドライブレターとはAとBがフロッピー、Cがハードディスクのように外部記憶装置にA~Zを割り振ることです。
■WindowsXPの草原は実在する
WindowsXPのデスクトップでよく見かけるのが「草原」の壁紙。青い空に雲がかかり、緑の丘には日があたっています。世界中のウィンドウズ・ユーザーが毎日、見ている画面ですが、これはCGではなく実在しています。
場所はアメリカ・カリフォルニア州にあるソノマバレーの東にある丘。撮影したのはカメラマンのチャールズ・オレア氏で、現地のソノマバレーに住んでいます。「ナショナル・ジオグラィック」などの撮影を担当するカメラマンです。やがて単純な色から机の上に写真を並べるように熱帯魚や森林などいろいろな壁紙が登場するようになりました。
この草原があるソノマバレーはワイン生産で有名で、ブドウ畑が広がっています。カメラマンはワインにまつわる風景写真をよく撮影しているため、日常的に行き来する丘でした。ある日、カリフォルニアの青い空に積雲が広がる中、丘の緑が見事なコントラストになっていて思わず撮影しました。この時に撮影した写真が採用され、世界中のウィンドウズ・ユーザーが見ることになります。このカメラマン、実はマックユーザーだそうです。

あなたの出版をサポートします!ペンコム波乱万丈物語

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    木曜日は大阪産業創造館で知的生産の技術研究会・関西のセミナーを開催。1987年9月にはじめ、もう27年になります。始めた頃は20代でしたが、今やすっかりオジサンになってしまいました。(笑) 

    講師は明石で編集プロダクション&出版社をやっている株式会社ペンコム代表の増田さん。IT系の出版で有名なンプレスコミュニケーションズと提携し、パートナー出版社になっています。 

    ■あなたの出版をサポートします!ペンコム波乱万丈物語 
    編集プロダクションを立ち上げて、本を出そうといろいろと模索していた時に、あるコンテストで株式会社ナビットの福井社長と出会います。福井社長は地下鉄乗り換えマップを出した方で、一番最初は赤ん坊をベビーカーに乗せ、乗り換えマップの出版企画をもって本屋まわりをしますが、断られるばかり。 

    増田さんは福井社長に「日本に何社の出版社があると思っているの、片っ端からいきなさい」と言われ、出版社めぐりを開始。出版社に「今、会社の下に来ているので会っていただけませんんか」と片っ端からアプローチ。これが最初の本の出版につながります。 

    波乱万丈物語以外に出版企画書の書き方や紙の出版と電子出版もやっていますので、それぞれの違いの話などをおうかがいしました。 

    アマゾンの「中身検索」ですが、驚くほどアナログのやり方でやっているお話しを聞いてビックリ!

白金長者屋敷

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    都営三田線の西高島平駅近くにあるのが赤塚城、志村三丁目駅近くにあるのが志村城。そして白金台駅近くにあるのが白金長者屋敷です。都営三田線を巡ると3つの城跡を訪ねることができます。白金長者屋敷は白金台駅と目黒駅の間にある国立科学博物館附属自然教育園の中にあります。 

    室町時代、豪族がこの地に館を作りました。館の主が誰だっかは分かっていませんが、太田道灌のひ孫の新六郎がこの地を治めていたことが記録されていて、いわゆる「白金長者」であったという言い伝えが残っています。江戸時代、徳川光圀の兄にあたる高松藩主・松平讃岐守頼重の下屋敷となります。明治時代には火薬庫と変遷しています。昭和24年に文部省の管轄となって、自然教育園として公開されるようになります。 

    入口を入るとまず土塁があり、かなりの高さでずっと続いています。江戸時代の下屋敷には庭園が作られていましたが、土塁は何か事があった時のために、そのまま残したんですかねえ。かなり広い自然教育園ですが、ヘリの方を土塁がずっと巡っています。都会のど真ん中に、こんな見事な土塁がよく残りましたね。館跡というところがあり、かなり広い方形郭になっていて直角に曲がった土塁が残っています。見事ですね。 

志村城跡 板橋に残る城跡

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    都営三田線の西高島平駅から少し行くと志村三丁目駅があります。志村三丁目駅から少し歩くと、かなりの高台があり、ここが志村城跡。 

    といっても城の遺構はほとんど残っていなく熊野神社の社殿横に空堀や土塁などが残っている程度。熊野神社は古墳の上に建っているようで、古代から眺めのよい一等地だったようです。この熊野神社を勧請したのは戦国時代で、志村城に当時からずっとあった神社のようです。 

    城の遺構は残っていませんが周辺を歩いていると道路がすごい坂になっていたり、当時の城から見た景観を楽しむことができます。熊野神社の横に日本電産コパル株式会社がありますが、ここからも坂になっています。郭の一つだったようです。 

    西高島平にある赤塚城の支城だったようで、千葉自胤の一族である千葉信胤が城主で入っていました。、北条氏綱に攻められ落城したからは北条氏が支配しましたが、秀吉の小田原攻めで赤塚城ともども廃城になったようです。

赤塚城(高島平に残る城跡)

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    高島平と言えば東京の一大団地。団地の開発と同時に、東京都が都営地下鉄・三田線を整備して都心とのアクセスを確保しました。高島平という名前の由来は江戸時代の砲術家・高島秋帆に由来し、この地で初めて洋式砲術と洋式銃陣の公開演習を行ったため高島秋帆の名前から高島平と名づけました。 

    都営三田線の終着駅、西高島平駅から15分ほど歩くと板橋区立郷土資料館があります。ここに郷土の城である赤塚城について展示があると事前にホームページで調べていたので、さっそく行ってみると「板橋と馬」という特別展をやっていました。サラブレッドが導入される前の小さかった日本の馬にまつわる展示などがあり、面白かったのですが肝心の赤塚城の展示がない。入口で

    聞いてみたら特別展でスペースを使ったので常設展はないとのこと、残念。気を取り直して板橋区郷土資料館を出ると、横にかなり急こう配の丘があり、ここが赤塚城跡。 

    下総千葉氏の内紛で遺児となってしまった実胤・自胤兄弟はかろうじて城を脱出、武蔵に逃げ込み、太田道灌を頼ります。太田道灌が二人を庇護し、兄の実胤は石浜城に弟の自胤がこの赤塚城に入ります。その後は太田道灌の配下として、石神井城を攻めたりしましたが下総奪還はできず、太田道灌の死後は北条氏の配下になります。秀吉の小田原攻めで北条氏と運命をともにし、この時に赤塚城も廃城となったようです。 

    城跡は公園化されて土塁などは残っていませんが主郭などが拡がっていてなかなか見事。郭のまん中は梅林になっていました。戦国時代、一帯は湿地帯だったようで水堀状態になっていました。板橋区郷土資料館の横の池がその名残だそうです。