高屋城

高屋城
高屋城

大阪府よろず支援拠点のお仕事で羽曳野商工会へ。セミナーと相談会を行ってきました。最寄駅は古市駅です。

古市駅近くにあるのが高屋城。郭の土塁が一部残っている以外はすっかり市街地化になっています。それでも城の形が地形として残っていて東高野街道と樫原神宮へ向かう近鉄のあたりは高台になっていて土塁跡でしょう。

生駒山沿いの東高野街道と大和からは街道が交差するところにある交通の要衝です。大坂夏の陣では道明寺の戦いが行われたところです。室町時代、畠山基国が管領の時に築城され河内守護の城となりましたが、何度も戦いの舞台になります。最後は織田信長が池田勝正、十河一行、雑賀衆の鈴木孫一などと戦い、この後に廃城となったようです。

応昌寺城

近江塩津駅周辺をGoogleマップで検索すると応昌寺城という文字が!山城だ~あ!

応昌寺城
応昌寺城

ということで情報を調べて出かけてみました。標高146mの小山で塩津小学校の右手に散策道があり、それを登ると公園施設になっていて、そこが城跡という情報です。近江塩津駅から延々と歩いて、塩津小学校へ。情報通り山に登る道がありました。さっそく登るとジャングルジムがあり、どうみても郭跡です。

これは期待できると、先に進むと獣害防止のフェンスに突き当たります。どっかに入口はないかと探し回りましたが、どこにもなく断念。獣害対策で公園どころじゃなくなったんでしょうね。結局、本郭などは見つけられずトボトボと帰りました。

疋壇城

疋壇城(ひきだじょう)

疋田にある丘城で越前・朝倉氏の城で近江・越前国境を守備する城でした。交通の要衝でこの近くに三関のひとつである愛発関があったのではと言われています。

疋壇城
疋壇城

朝倉義景は浅井長政の救援に向かい小谷城近くに陣をはりますが、信長が朝倉方の大嶽城・丁野城を攻め落としたため形勢不利と判断して退却を開始。この動きをよんでいた信長は追撃をし、疋壇城手前の刀根越えで追い付き、朝倉方の多くの将兵が討たれます。この時、疋壇城も攻め落とされ、そのまま敦賀から一乗谷に攻めこまれ朝倉氏は滅ぶことになります。

疋壇城はきれいに整備され石垣跡や堀跡も明瞭に残っています。

平城京へ

平城京
平城京

コンサルティング・ファームを目指すという設立当初の崇高な目的はなんのその、今や単なる飲み会集団となったファイティング・コンサルタンツという研究会があります。秋になると遠足に出かけております。

以前、飯森山城を登るイベントを企画・実行したところ、えらく不評でして今回は高低差がないというリクエストでした。ということで近鉄・新大宮駅から平城京跡へ。東院庭園→遺構展示館、造酒司井戸→第一大極殿、復原事業情報館→朱雀門、平城宮いざない館→遣唐使船と平城京跡の半分ほどを巡ってきました。

平城宮いざない館では位によって、土地とお金がいくらもらえるかで、えらく盛り上がっておりました。

近江塩津

琵琶湖の一番北にあったのが近江塩津。大阪から米原・長浜経由の新快速に乗ると近江塩津駅で、けっこうな高台にある近江塩津駅からひたすら下っていくと近江塩津に着きます。琵琶湖水運の要でした。日本海で取れた海産物などの物資が敦賀で陸揚げされ、深坂峠を越えて塩津港へ運ばれます。ここから船積みして琵琶湖を大津や堅田まで運び、陸揚げして京都、大坂へと運びました。

近江塩津
近江塩津

琵琶湖には主要な48浦がありましたが大津、塩津は飛びぬけて物流が多く、琵琶湖水運の中心でした。古代から江戸時代まで繁栄が続きましたが伊勢出身の河村瑞賢が「東・西回り航路」を開拓します。「菱垣廻船」「樽廻船」といった海洋廻船が発達したため琵琶湖水運はだんだん縮小していくことになります。

敦賀運河

敦賀運河
敦賀運河

古代、交通の大動脈といえば琵琶湖でした。なんせ大量の物を運ぶには船が一番です。継体天皇は応神天皇5世の孫で、ほとんど血縁関係がなく、この時に王朝が変わったという_unga説があります。継体天皇が選ばれたのは日本海-琵琶湖-宇治川-淀川-瀬戸内海の水運を抑えていたからでした。織田信長も琵琶湖の水運を重視しており、秀吉の長浜城、信長の安土城、光秀の坂本城、織田信澄の大溝城で琵琶湖を取り囲むネットワークを築きます。

琵琶湖の水運でネックだったのが敦賀と近江塩津との間、急峻な山が続きJR北陸本線はループ線になっています。なんとか運河を作ろうと平重盛が計画しましたが断念。敦賀城主となった大谷吉継も挑戦しましたが断念。江戸時代になって幕府も挑戦しましたが、結局はダメで途中の敦賀から疋田までは何とか運河にし、ここから山越えになりました。その名残が疋田の町に残る疋田舟川です。計画は昭和にもあり、それが日本横断運河ですが、結局、断念しました。

ニギハヤヒ

■行くのが大変なニギハヤヒのお墓
近鉄けいはんな線・白庭台駅は神話に出てくる「鳥見白庭山」から地名がつけられています。神話の主がニギハヤヒ(饒速日命)でGoogleマップで調べると駅近くにお墓が出てきますが、これを信じると、えらい目にあいます。Googleマップの経路案内(徒歩)で最短ルートを探して行ってみても崖しかなく全く役に立ちません。

ネットで調べると生駒市総合公園まで回り込まないとたどりつけないようです。なるべく高台を目指すと途中で山道を発見。これがピンポンで、山道をひたすら登っていくと、たどりつけました。

ニギハヤヒ
ニギハヤヒ

■天皇家と同じだったニギハヤヒ
ナガスネヒコが仕えていたのが神武天皇より先に大和へ天下っていたニギハヤヒです。ナガスネヒコの妹を妻として生まれたがウマシマジ(宇摩志麻遅命)で物部氏の祖となります。同じ天孫の神武天皇が現れたのでニギハヤヒはナガスネヒコを裏切って神武天皇につきます。なんてやつだあ!

ニギハヤヒは天磐船に乗って河内国の川上哮峰(交野市)に天下り、次に鳥見白庭山に移ります。この白庭山にお墓があります。神武天皇より先に天下り大和に鎮座していた勢力があったことを日本神話や古事記も隠せなかったんですね。しかも物部氏の祖でもあり、なぜ出雲系の三輪神社があるのかなど不思議が多い大和です。

ナガスネヒコ 本陣の碑

ナガスネヒコ 本陣の碑
ナガスネヒコ 本陣の碑

長髄彦(ながすねひこ)ってご存知ですか?

神武天皇が海だった大阪を渡り、生駒山の麓にある日下に上陸。日下から生駒山を越えて大和に入ろうとしたところ、大和を治めていた長髄彦が立ちふさがり戦いとなります。神武天皇軍は生駒山にあった日下の直越(ただごえ)という道を進んでいきますが、麓から生駒山を登るには2時間ほどかかりますので、けっこう大変です。なんで山道を登ろうと考えたんですかねえ。もっと枚方あたりに回って北から大和へ回り込めば楽だったのに。どうも日下に何かあったようで、後世に宮の名前で日下がでてきますから支援者の拠点だったのかもしれません。

■ナガスネヒコの本陣碑
神武天皇を迎え撃ったのが長髄彦で本陣の碑が生駒市白庭台の住宅地にあります。ここらへんは登美(トミ)ともいい、今も近鉄・富雄駅などの名前で残っています。本陣跡は生駒山を越えたところにある高台で防御するには適した場所になっています。神話の世界の話なんですが場所は合理的なところです。

敗れた神武天皇は大きく紀伊半島を迂回することになりますが、敗れた理由が「日神の御子であるのに太陽に向かって戦ったからだ」です。そんなん東にそびえる生駒山を登るんやから、当たり前ですがなあ!と誰もつっこまなかったんですかねえ。

上賀茂神社

下鴨神社から加茂街道を葵祭の行列が進みます。対岸から見ると行列が賀茂川に映り、なかなか幻想的ですね。目指すは上賀茂神社で下鴨神社と同じ加茂氏の神様です。なるほど鴨川ホルモーの舞台になるはずです。

上賀茂神社
上賀茂神社

祭神は賀茂別雷神社で降臨したのが京都産業大学近くにある神山(こうやま)で、大学の校歌にも神山がでてきます。上賀茂神社の自転車置き場には、ここからスクールバスに乗る学生の自転車であふれています。なんせ坂をふたすら登らないと大学にたどり着かないので。

上賀茂神社といえば境内を流れる明神川があり、自転車置き場のすぐ近くに鄙びた雰囲気の箇所が今でもあり、よく必殺シリーズなど時代劇の撮影で使われていました。当時のドラマなどを見ると、「あっ、上賀茂神社だ」とすぐ分かり江戸を舞台とした話なんですが全然、感情移入できませんなああ(笑)。

深泥池

深泥池
深泥池

下宿のあった上賀茂からちょっと東に行くと深泥池(みどろがいけ)があります。今は住宅地のど真ん中ですが40年ほど前はもう少し鄙びていました。時たま散歩で出かけていました。

池のほとりから宝ヶ池に抜けることができ、よくタクシーなどが通っています。それでできたのが深泥池の幽霊伝説。若い女性を乗せたら消えてしまってシートが濡れていたという、おきまりのやつです。40年ぐらい前にも流布していました。

深泥池は氷河期から残る貴重な池で、市街地で最終氷期からの生き残りとされる生物などがみられる貴重な場所です。平安時代ぐらいから、いろいろな記録にでてくる池です。見た感じは何の変哲もない池なんですがねえ。