楠葉台場

楠葉台場

枚方で打ち合わせでしたので楠葉台場に寄ってきました。京阪電車の路線のすぐ横に遺構があります。なにもない畑でしたが発掘調査の後、2011年に楠葉台場跡として国の史跡として整備されました。

黒船来航以降、全国に台場が作られ、その一つが楠葉台場。京都の入口にあたる淀川左岸にあり大砲3門を備えていました。勝海舟が指揮をとり外国船が淀川を遡ってくることがないように作られましたが、外国人におびえる朝廷を安心させるためと、過激派などを京に入れさせないための関所の意味合いが強かったようです。

■鳥羽・伏見の戦い
鳥羽・伏見の戦いでは初戦で敗退した幕府軍が後退し淀城へ向かいますが淀藩に入城を断られます。しかたないので淀の先の橋本番所と楠葉台場に兵を集合させます。ところが対岸の高浜台場を守備していた津藩が新政府側について幕府軍に砲撃をはじめたため、幕府軍は総崩れになって大坂に退却します。

楠葉近辺は交通の要衝で今も名神、新幹線、JR、阪急、京阪電車が狭いエリアを走っています。写真に見える山は山崎山で秀吉と明智光秀が激突した山崎の合戦が行われたところです。

佐竹氏

佐竹氏陣跡

”今福の戦い”で豊臣方と戦った佐竹義宣は佐竹氏19代、佐竹氏は常陸源氏の嫡流で名門でした。本貫は常陸国久慈郡佐竹郷(茨城県常陸太田市)で、鎌倉公方や足利将軍家との争いに巻き込まれながら常陸を中心に戦国大名へと育っていきます。

当主の佐竹義宣は石田三成に近かったですが、関ヶ原の戦いでは家中での意見がまとまらずに中立的な態度をとります。これが問題となったのか徳川家康から突然、出羽国秋田郡への国替えを命じられ、先祖伝来の常陸を離れることになりました。国替えの原因は諸説あります。

この後、大坂冬の陣で上杉景勝と共に最前線を任せられ鴫野・今福の戦いに臨みますが、この時の陣跡が現在、若宮八幡大神宮となっています。江戸時代は国替えもなく明治維新を迎えますが、幕末はいろいろと事件がありました。まず平賀源内が遠近法などの蘭画の手法を伝えたところから生まれたのが秋田蘭画でなんと藩主までが蘭画を描いています。戊辰戦争では平田篤胤が秋田出身ということもあり尊王の意識が強く、最初は奥羽越列藩同盟に加わっていましたが離脱して新政府軍に参加、怒った仙台藩と秋田戦争を戦うことになります。

今福の戦い(大坂冬の陣)

今福の戦い(大坂冬の陣)

大坂城の北側にある鴫野村のさらに北側を大和川が流れ、川を渡った対岸が今福村です。今は大和川でなく寝屋川が流れています。

今は住宅街になっていますが当時は低湿地帯でした。兵が展開できるのは堤の上だけで周りは田んぼという状況です。豊臣方は柵を設け守備していましたが、徳川家康は附城を鴫野と今福に築くため、柵の攻略を佐竹義宣に命じます。佐竹義宣が堤を進み柵に攻めかかっていたところ、大坂城から木村重成が応援に出て反撃したため佐竹勢は後退します。ところが対岸から上杉勢が銃撃するため木村隊も進めず膠着状態になります。

そこへかけつけたのが後藤又兵衛で、ひるむ豊臣方を立て直して堤の上から銃撃を開始し、木村隊が突っ込むことで佐竹勢の先鋒隊が潰走することになります。佐竹義宣も危うくなり家老が討死にする事態となります。対岸の上杉勢に救援を求め、上杉景勝、堀尾忠晴、榊原康勝の軍勢が中州まで降りて側面から銃撃したことで豊臣方が引き上げることになりました。両者、引き分けの戦いでした。

今福の戦いの碑が三郷橋稲荷神社のすぐ横にありますが、何も残っていません。ただ堤の高低差が残っていて、かなり狭い堤の上での戦いが実感できます。真田丸での戦いが始まる2週間前のことです。

上杉景勝陣跡(鴫野)

八剱神社

大河ドラマ「真田丸」で真田丸での真田軍の奮闘を見た上杉景勝が「真田左衛門佐、日ノ本一の兵なり! 」と叫ぶシーンが出てきますが、上杉景勝は真田丸近くにはおらず、いたのははるか北の鴫野という場所です。

鴫野には八劔神社があり、ここが大坂冬の陣での上杉景勝陣所と伝わっています。ここで鴫野の戦いが行われました。豊臣方は鴫野村に柵を設置し、兵2,000で守備していましたが、徳川家康は付城を築くため、鴫野の柵の奪取を命じます。鴫野へ向かったのが上杉景勝と後詰の堀尾忠晴、丹羽長重、榊原康勝です。

上杉軍が鴫野の柵を攻撃し、柵を占拠しますが、大坂城から大野治長らが12,000の兵で来援し反撃に転じました。上杉軍は鉄砲の一斉射撃や槍兵の側面からの突撃で援軍を撃退します。

鴫野の戦いの後、上杉景勝は大坂城の東側で大坂方と対峙しましたので真田丸ははるか先です。日ノ本一の兵なり! と言ったのは大体、島津ですしね。

大和川の跡

新開地の自然堤防跡

和気清麻呂の時代から懸案だったのが大阪の東側を流れる大和川の付け替え。

古代から大和川は北に流れ、最終的に淀川と合流して大阪湾にそそいでいました。ただ洪水をよく引き起こしていたため奈良から流れてきた大和川をそのまま西に流して大阪湾へ直接つなごうという大事業です。

■大坂の陣
大坂の陣では大和川沿いに進軍してきた徳川軍を河内平野に侵入してくるところを隘路で待ち受けることにしました。これが道明寺の戦いで、後藤又兵衛が討死することになります。

当時は大和川が北に流れていましたので、京都を出発した徳川本隊は大和川の東側にある東高野街道を南下していました。街道沿いに伸びきった隊に横槍をいれようとして始まったのが八尾・若江の戦いで木村重成が討死します。このように大和川は大坂の陣の舞台となりました。

■吉田に残る大和川遺構
近くの近鉄東大阪線・吉田駅周辺には大和川にちなむ地名が今も残っています。「川中」、「島之内」など極めつけは水走(みずはい)でしょう。

大和川が付け替えされる前、吉田駅近くに新開池という池がありました。今は住宅地となってしまいましたが、今も2メートル程の段差がずっと残っています。これが新開地の自然堤防跡です。写真の住宅の向こう側に2メートルほどの段差があり、ずっと続いています。

岩﨑山城(北ノ庄城)

岩﨑山城(北ノ庄城)

八幡山城の「北の丸」脇から山道が出ていて、これが尾根沿いに百々神社まで行くことができる縦走路。途中に岩﨑山城(北ノ庄城)があります。

岩﨑山城は佐々木氏の支城ということでしたが発掘調査の結果、大規模な堀切や虎口が見つかり、どうも八幡山城と有機的な結びつきがあったようです。秀次の時代に八幡山城の北側を守るために佐々木氏の城に手を入れて有効活用したのでしょう。

縦走路は土橋の上を渡り、北側の土塁上に続いています。南側に郭が続いているのですが、これが藪だらけになっていて郭に入るのがなかなか大変。虎口などがあるはずですが、そこまでたどりつけませんでした。東側の石垣がある平虎口は見られました。岩﨑山城で有名なのが七つ池といわれる窪みで、水を確保するためのものだったのでしょうか、これは縦走路近くだったので見られました。

岩﨑山城から麓の北ノ庄神社に降りる道があったので、山を降り始めましたが誰も通らないため途中から藪と蜘蛛の巣だらけに。とりあえず道らしきところを通って麓へたどりつくと神社から少し離れたところへ到着(笑)。ハードな山城シーズンには、まだ早すぎたようです。

近江八幡山城

近江八幡山城

八幡山城ですが、なんてたってロープウェイ(近江鉄道)があるのがいいですねえ。片道4分(490円)乗車するだけで苦労せずに山城に到達できます。山城は好きですが、別に登山は趣味じゃないので山城まで楽に行ければ、それにこしたことはありません。ただそんな山城は岐阜城と松山城ぐらいしかなく、せっせと藪漕ぎしながら山道を登ることになります。

八幡山城を作ったのは秀吉で、秀次を入城させますが秀次が高野山で切腹した後に聚楽第とともに廃城となりました。信長が安土城を造った時に中山道より琵琶湖側に入った脇街道を整備し、安土と京都を結びました。近江八幡は安土に代わって、この脇街道や琵琶湖の水運など物流をおさえる拠点として造られます。脇街道は江戸時代に朝鮮通信使が通る道となったので朝鮮人街道とも呼ばれています。

八幡山城本丸跡は瑞龍寺となっていますが、石垣はそのまま残っていて枡形虎口などが確認できます。北の丸からは安土城、観音寺城がよく見え、西の丸からは琵琶湖が一望できました。ただ西の丸から出丸まで行こうと思ったら通行止めになっていました。

豊臣秀次館跡

豊臣秀次館跡

近江八幡の城下町を整備したのが豊臣秀次です。秀吉の姉の子で後継者がいなかった秀吉の養子となります。

本能寺の変で織田信長が亡くなり、その後の混乱で安土城が燃えてしまいました。ルイス・フロイトによると犯人は織田信雄が濃厚のようです。近江を支配することになった17歳の豊臣秀次は八幡山城を築き城下町を整備します。すぐ隣の安土城下の民衆を移し、楽市楽座を開設。琵琶湖がすぐ横ですので安土城と同様に水運を重視します。もっとも秀次についた宿老たちが優秀だったのでしょう。

八幡山城は詰の城で、山麓に居館が作られました。場所は市立図書館の裏手で八幡公園の一番西にある階段をひたすら登るとたどりつくことができます。ところが観光案内にも載っておらず看板もありません。というわけで誰もいません(笑)。

八幡公園も含め、平坦地の段が階段の両側に続いていますが、これが家臣団屋敷で、ところどころに石垣が残っています。一番上まで登ると石垣の壁があらわれ、これが秀次館跡。発掘調査で秀次が使っていた沢瀉紋(おもだかもん)が入った金箔瓦が発見されて秀次館跡と特定されました。なんで観光名所になっていないんでしょうね。

ファイティング・コンサルタンツ研究会

じょうもん

昨日は久しぶりのファイティング・コンサルタンツ研究会。

15年以上も続く歴史ある中小企業診断士の研究会です。根城にしているのは泉北高速の深井駅にある株式会社ユニバーサルECです。ここの会議室で重要議題である忘年会の日程調整が決まると、あとは議題もないためウダウダと話をして早々に終了。

真剣な討議で、のどが渇いたので深井駅から一駅行った中百舌鳥駅へ皆で移動して15時から開店している立ち飲み屋さんへ。ところが、まさかの臨時休業。

仕方ないので中百舌鳥駅の反対側にある11時からやっている立ち飲み屋へ移動。ここで時間をつぶして、17時になるのを見計らって「じょうもん」へ。株式会社ユニバーサルEC(旧名・セレソヴィー株式会社)が中百舌鳥にあった時によく利用していた居酒屋です。結局、忘年会の日程調整が唯一の成果でした。

ガチャコン(近江鉄道)

近江鉄道

滋賀のローカル鉄道といえば近江鉄道。地元ではガチャコンと呼ばれています。

米原駅と貴生川駅を結んでいて途中の八日市駅から近江八幡駅まで支線が出ています。時たま新幹線横をガタゴト走っているのを見ることができます。なんせ近江の城巡りには便利なので時たま乗っています。近江といえば西武・堤家の発祥地でもあり近江鉄道は西武グループとなっています。駅前には西武バスや西武タクシーが走っていて関西人にとっては違和感がありますね。