殿山城

和田谷の入口にあるのが殿山。階段があってずっと登ると展望台があり、ここが殿山城の主郭跡になります。すぐ横が足利義昭を匿った公方屋敷跡。

殿山城
殿山城

主郭近くに郭跡がいくつかあるのですが、公園として整備されているので往時の姿はありません。大体、階段で楽に登れるので城じゃないですねえ。

ということで尾根に出てみたら、これがピンポン!2つの堀切で見事に尾根筋を遮断していました。けっこう深い堀切で、こっちが往時の防衛ライン。帰りに「殿山城跡」の矢印が道に倒れているのを発見。堀切の方を指しており、ちゃんと案内していたんですねえ。和田谷、おそるべし!

和田支城2

和田支城1があるということは和田支城2もあります。

和田支城2
和田支城2

こちらは30mほどの単郭が中心で、和田支城1の北側にあります。城からは和田支城1も和田城も見え、城塞群で和田谷を防衛していたことがよく分かります。土塁も高く、堀切も見事。

ほとんどの城跡は案内も何もなく、ひたすら事前調査し、このあたりと辺りをつけて現地で山道などを探すしかないのですが和田谷はしっかりと案内板があり、城巡りするには最適の地域です。秋でも十分に回れるのでオススメです!

和田支城1

和田城の川を挟んだ対岸にあるのが和田支城1。和田には和田城を中心に谷全体の各地に城が造られ谷全体で防衛する形になっています。朝倉氏の一乗谷や同志社大学田辺キャンパス近くの普賢寺谷のようです。

和田支城1
和田支城1

和田支城1の主郭は東西25m、南北35mほで土塁もしっかり残っています。副郭や帯郭もしっかり残っています。住宅地から神社へ登る山道があり、登っていくと、この神社がある場所が主郭になっています。小さな城の案内などなく自分で調べるしかないのですが、和田はきちんと案内板が整備されています。

和田城

甲賀の和田の里があり、一番奥にあるのが和田城です。

和田城
和田城

和田氏のお城で和田氏で有名なのが和田惟正。覚慶(足利義昭)を興福寺から助けし、和田の地に匿います。上洛に向けて織田信長と交渉するなど、いろいろと骨をおりました。和田惟正はキリシタンを保護したことでも有名でルイス・フロイスと織田信長を仲介したのも和田惟正です。

やがて上洛した足利義昭によって池田勝正、伊丹親興と共に摂津守護の1人となり「摂津三守護」と呼ばれます。幕臣でしたので織田信長と関係が悪化することもありましたが、最終的には織田信長の家臣となります。三好三人衆の一人、三好長逸と手を結んだ池田知正を討つため伊丹氏や茨木氏と一緒に戦いまずが、当時は池田氏家臣だった荒木村重に敗れ、討死します。

和田城は複数の郭で構成されており、虎口から入ると主郭へ入ることができますが、高い土塁で囲まれています。

和田公方屋敷跡

昨日の大河ドラマ「麒麟がくる」では織田信長に報じられた足利義昭が上洛していました。足利家では家督相続者以外の子供は仏門に入るため、足利義昭は覚慶という名前で興福寺の一乗院に入っています。第13代将軍・足利義輝(向井理が演じてました)が三好三人衆に殺されてしまい、覚慶は興福寺に監禁されましたが、三淵藤英・細川藤孝ら幕臣の援助を受けて奈良から脱出、向かったのが甲賀です。

和田公方屋敷跡
和田公方屋敷跡

甲賀に和田という里があり、和田惟政という幕臣の領地でした。興福寺から覚慶を救い出し和田の里に匿います。その匿った場所が和田公方屋敷跡として残っています。裏側に城があり、対面にも城が整備され防御は完璧でした。

■2年前に幻の上洛計画があった
大河ドラマでは光秀が信長に会っていますが、それ以前に和田惟政が信長に上洛をすすめていました。この時は六角義賢、織田信長、浅井長政、斎藤龍興に話をつけます。信長はこの時に上洛しようとしますが、話をつけたはずの齋藤龍興に阻まれて撤退。結局、六角と斎藤が足利義昭を見捨てることになり、足利義昭は最終的に北陸へ行くことになります。織田信長の上洛2年前に幻の上洛計画があったことは一般に知られていません。

大和神社・御旅所

山辺の道シリーズ、最後は大和神社の御旅所。大和神社は「おおやまとじんじゃ」とよ、崇神天皇の時代に何かとんでもないことが起きた舞台です。

大和神社・御旅所
大和神社・御旅所

大和神社の本殿は山辺の道から下った麓にあるんですが、最初の鎮座地はよく分かっておらず長岳寺近辺など、いろいろな説があります。長岳寺近くに御旅所があるんで、このあたりが最初の鎮座地だったかもしれません。

■2つの神様を外へ
伊勢神宮の内宮は元々、宮中に祀られていたアマテラスを豊鋤入姫命が笠縫邑に移し、ここから適地を探して行脚。最終的に内宮に祀ることになります。アマテラスと同時期に宮中に祀られていたのが倭大国魂神で、日本書紀によれば世の中が乱れたり謀反など不穏になるのは2つの神様を同じ大殿に祀っているせいということから、崇神天皇は2つの神を外へ出すことになります。

倭大国魂神が祀られたのが最終的に天理市にある大和神社になります。この時に大物主のお告げにより大田田根子を探し出して大物主を祭ることになり、これが三輪神社となります。倭大国魂神は大和の地主神のようで、大物主は出雲の神様、アマテラスは本来、男神だったようで、よく分かっていません。とにかく何かが起きていたんですねえ。

神籬

神籬は「ひもろぎ」と読み、神社など以外で、臨時に神を迎えるための依り代となるものをいいます。山辺の道からちょっと入ったところに神籬遺跡があります。この辺りの字名が「ヒモロギ」で、日本書紀に「アマテラスを倭の笠縫邑に祭る。よりて磯堅城の神籬を立つ」とあり、この神籬ではないかといわれていますが、よく分かっていません。

神籬
神籬

大神神社のご神体が三輪山で、神は山や大木、大岩を依り代にすると考えられてきました。河内一宮である枚岡神社は本殿や拝殿がありますが、ハイキングコースをひたすら登った神津嶽に本宮があり、小さな社が建っています。ここが古代祭祀跡で枚岡神社の創始の場所になっています。新宮の神倉神社もゴトビキ岩がご神体になっています。

伊勢神宮の正殿、床下中央部分には心御柱(しんのみはしら)があり、これも神籬の一つです。遷宮の旧社殿を見ると小さな社が建っていて、この心御柱を守っています。

三輪成願稲荷社

大神神社へ向かう途中にあるのが三輪成願稲荷社。商売繁盛・心願成就の霊験あらたかということで熱心に拝んできました。なんてたって成願ですよ(笑)。商売繁盛、頼んまっせえ!絶対他力でっせえ!

三輪成願稲荷社
三輪成願稲荷社

三輪成願稲荷社に祀られているのはお稲荷さんで、ウカノミタマという女神です。稲に宿る神秘な穀物の神さんです。ウカノミタマはスサノオの娘で兄が大年神(おおとしのかみ)。毎年正月に各家にやってくる来訪神で、年神を迎えるために門松を門前に立て、鏡餅を供え物とする風習は今も残っています。

稲荷社は全国にありますが、ダントツ1位は戦いの神さんである八幡さん。昔、法人番号公開サイトを使って調べたことがあります。
1.八幡神社 5,841件
2.稲荷神社 3,349件
3.熊野神社 2,187件
4.八幡宮  2,058件
5.諏訪神社 2,004件

八幡神社と八幡宮は同じ系統なのでは、やはりダントツですねえ。

平等寺

山辺の道沿いにある平等寺。聖徳太子の開基といわれています。

平等寺
平等寺

境内には島津家ゆかりの寺という旗がたっています。気になって調べてみたら関ケ原の戦いに関係していました。関ケ原の戦いで西軍に属していた島津義久軍は戦場に取り残される形となります。家康の本陣近くが手薄だったので撤退といいながら正面突破するという有名な島津の退き口が始まります。

壮絶な戦いで井伊直政はこの時に島津から受けた傷が原因で死んでしまいます。ただ島津の軍勢はわずか80名になり、伊勢に入ってからバラバラでの逃避になります。島津義弘以下、13名が平等寺に落ちのびます。

義弘主従は70日間、平等寺に逗留し、住職から帰りの舟を用立てるお金を借りて、無事に大坂経由で薩摩国に帰還できました。これが縁で後の島津家は平等寺を大事にすることに。護摩堂を寄進し、毎年、鹿児島からお米と祈祷料を奉納していました。こんなところに関ケ原の歴史が残っているんですね。

纏向日代宮

第12代、景行天皇の宮が纒向日代宮(マキムクヒシロノミヤ)。伝承地からは邪馬台国の有料候補である纏向遺跡を一望できます。大型建物跡などが見つかり、いずれにしてもヤマト政権の始まりになったところです。でもなんで見下ろせるような高い所に宮を作ったかは謎です。

纏向日代宮
纏向日代宮

景行天皇の皇子がヤマトタケルで東国から九州・熊襲まで平定した古代の英雄です。九州の熊襲はもともと景行天皇が平定しましたが、また反乱が起きたためにヤマトタケルを派遣しました。ヤマト政権初期は天皇自身が軍事を司っていましたが、平安時代となり自分たちの手が汚れないよう軍事をアウトソーシングすることになりました。これが武士の誕生になります。

■三重の語源
ヤマトタケルの有名な歌が「大和は国のまほろば たたづく青垣 山ごもれる 大和し美し」で能褒野で亡くなる前、大和をしのんでよんだと伝わっています。ヤマトタケルは東国から大和へ戻る途中、伊吹山で荒ぶる神の祟りを受け、病になります。伊勢国に入り急坂を杖をついてようやく登り、「吾か足三重の勾なして、いたく疲れたり」と言ったころから”三重”という地名になったと伝わっています。