八木哲郎さんの訃報

「知的生産の技術」研究会を作られた八木哲郎さんが、21日に老衰のため亡くられました。ご冥福をお祈り申し上げます

■そもそものスタート

1969年、梅棹忠夫先生の「知的生産の技術」(岩波新書)に触発され、八木さんは会社(味の素)を辞めて独立。ひらかなタイプラーターを売り出し、大学の先生に引っ張りだこに。作家やコピーライターなどにも売れ、あわせてセミナーなども開催し、つけた名前が「知的生産の技術」研究会です。

■東京には知研なるものがあるらしい!

そしたら梅棹先生が「東京では、知的生産の技術研究会というのがあり、たくさんの人を集めているらしい」と岩波のPR紙に書いていたのを発見してびっくり。八木さんはあわてて京都へ行って梅棹先生の許可をとったそうです。笑って許してくれて顧問に就任してもらえました。

■社外勉強会・異業種交流会のゆりかごに

顧問が梅棹先生ということもあり、有名人や時の人が講師を引き受けてくれました。八木さんが大宅マスコミ熟出身で、その人脈もいきました。当時、集まった人たちからコーヒー代を徴収し一流の人の講演を一般の人が聞く形のセミナーはなく知研セミナーは一躍有名に。知研がきっかけで全国に社外勉強会や異業種交流会が生まれることになります。植字の仕事などがなくなるため新規事業を考えていた朝日新聞もやってきてノウハウを吸収して立ち上げたのが朝日カルチャーセンターです。

■知研関西スタート

八木さんは梅棹先生から機関誌を出しなさいと言われていたので毎月発行していました。私が入会した頃は知研ニュースという名前で講演録などが掲載されていましたが、読むだけでは面白くないと1987年に立ち上げたのが知研関西。あの頃は27歳の青年でしたねえ(笑)。若かったな~あ!八木さんとは翌年ぐらいに始めてお会いして、以来、年に1回ぐらいは東京へ行った時にお会いしていました。おかげで梅棹先生とは何回もお目にかかれる機会ができたり、いろいろと勉強になりました。

八木哲郎
八木哲郎

写真は1997年に大阪YMCA会館で知的関西10周年セミナーを開催した時の八木会長です。この時は梅棹先生にも知的生産の技術というテーマでセミナーをしていただきました。ご冥福をお祈りします。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です