龍田道

古代、物資を運ぶなら船でした。難波津から河内湖へ入り、大和川を遡って亀の瀬へ至ります。大和川は難波津と平城京を結ぶ交通路だったため大和川沿いに河内六寺の仏塔が林立していました。平城京へ向かう海外の使節も感心したでしょう。鳥坂寺、家原寺、智識寺、山下寺、大里寺、三宅寺の6つでしたが、すべて廃寺になっています。瓢箪山駅近くにあった河内寺の仏塔も目立っていたようです。

龍田道
龍田道

亀の瀬から先は岩だらけで進めないため荷物を陸揚げして龍田道を進みます。一番高いのが亀の瀬より40m高い標高80mの峠八幡神社です。峠を越すと大和川へ出られるので、ここから荷物を船に乗せ換えて平城京を目指したのでしょう。大和川は飛鳥の海石榴市(つばいち)まで続いていますので、遣隋使の小野妹子や裴世清はこの龍田道を通ったのでしょう。

120年前の亀の瀬トンネル

昭和6年に起きた亀の瀬の地すべりによって道路や線路は寸断されます。亀の瀬を通っていたのは国鉄・関西本線で山間の狭い場所ですから亀ノ瀬トンネル(隧道)が通っていました。もともと造られたのは大阪鉄道時代の明治25年(1892年)です。このトンネルも含めて知すべりで全て埋まってしまいます。

亀の瀬トンネル
亀の瀬トンネル

平成20年から始まった地すべり対策工事の一貫で排水トンネル工事の掘削推進中に、レンガ構造のトンネル下り線(大阪方面行き)を発見。ほぼ当時の原形をとどめた状態でした。煉瓦積ですが、側壁は強度が高いイギリス積みになっていて上部のアーチは長手積みになっています。

亀の瀬では地すべり見学会が行われていますが、120年前のトンネルを見ることができます。

奈良湖(亀の瀬)

皆さん、よくご存じのように奈良には奈良湖がありました。大和の古代氏族の本拠地を見てて不思議なのが大和盆地の真ん中に、どの氏族もいないことです。

亀の瀬
亀の瀬

奈良湖を作っていた舞台が大阪府と奈良県の境にあるのが大和川の亀の瀬。奈良中の川が合流し大和川になって大阪に流れますが、亀の瀬でせき止められたのでしょう。亀の瀬は地滑り地域で有名で昭和6年の地すべりでは川をせき止めてしまい王子町内が浸水しました。往年の奈良湖がよみがえりました。この時は2万人/日の観光客が押し寄せ、絵葉書が売りに出され、野天カフェも設置されました。

縄文時代から古代にかけてあった奈良湖は断層による陥没などができ、どんどん排水されて消滅していったようです。大和川は古代から物流の拠点でした。遣隋使で煬帝の親書を持参した裴世清も、亀の尾を通っていました。竹内街道が古代の国道1号線と言われていますが、こちらの方が古いようです。聖武天皇が難波宮に行幸する時もこの道を通っていました。

ただし船は亀の瀬までは剣先船で登れますが、そこから先は無理で荷物を陸揚げして龍田道を通り大和側で船に積み替えていました。

矢田丘陵

大和の西側にある馬見丘陵は大和川で途切れ、法隆寺のある斑鳩の地からは北に向かって矢田丘陵があります。丘陵の南北の長さは約13キロメートルあり、標高は200メートル~300メートル程度、馬見丘陵に比べると格段に高いですね。なだらかな山道が続くためトレイルランでも人気のコースになっています。

矢田丘陵
矢田丘陵

東大寺などから西を見ると生駒山ではなく矢田丘陵が見えます。大和の古代氏族の勢力図を見ると矢田丘陵の南側は平群氏ですが、北側の方は空白地になっています。矢田丘陵の北にあるのが饒速日命(ニギハヤヒ)のお墓。一説には矢田丘陵のように長くのびた地形を長層嶺(ながそね)と呼び、そこに住む部族の長を長髄彦(ナガスネヒコ)と言ったそうです。神武以前の氏族がいたので空白地帯になっているんですかねえ。

馬見古墳群

馬見丘陵にあるのが馬見古墳群で総数は250基以上あり、葛城氏の墓域と言われています。馬見丘陵でニュータウン開発が進んだ時、古墳群などの保存のために馬見丘陵公園が計画され1991年に開園しました。

馬見古墳群
馬見古墳群

馬見丘陵公園の中には12ほどの古墳があり、丘かなと思って登ると前方後円墳の墳丘の上になっていたりします。古墳は丘陵の上に作られていますから麓からはよく見えるランドマークになっていたのでしょう。当時は葺石で覆われ、埴輪なども並んでいました。

山の上に風力発電の風車がいくつも並んでいると卒塔婆が並んでいるように感じられますが、古墳がいくつも連なっていると、古代人はどう感じていたのでしょう。

大坂城 乾櫓

日本フルハップさんで大阪府よろず支援拠点のセミナー&相談会を開催。テーマは「IT化のいろは」でした。セミナー会場は大阪城の目の前のビルの上で乾櫓がすごくよく見えます。

乾櫓
乾櫓

乾櫓は大坂城の西北方向を守る櫓でお堀側に突き出しています。乾櫓といえば三代将軍・徳川家光ですね。

大坂の陣で大坂は焼け野原となり復興するために徳川家光は大坂や堺の地代を永久免除にします。町人代表らに乾櫓近くの堀端に集まるよう指示を出し、集まった町人たちに分かるよう乾櫓に入った家光が金の采配を振ります。これが地代免除決定の合図でした。徳川の世が続いていたら今も税金無しだったのに(笑)

感謝した三郷の惣年寄が協議し、釣鐘を造らせて町中に時報を知らせることにしました。釣鐘屋敷を建て2時間おきに1日12回撞かれました。今は釣鐘町のマンションの一角に釣鐘があります。

ウクライナは今

ウクライナは今
ウクライナは今
  • 2年6ケ月ぶりに知的生産の技術研究会・関西セミナーを開催。日本ウクライナ文化交流協会の小野会長に「ウクライナは今」というタイトルでお話いただきました。マスコミでは聞けない話も多かったです。
  • ■タタールの軛
    ロシアとウクライナとの関係はタタール(モンゴル)の軛(くびき)時代に遡ります。キエフに黄金の門がありますが、モンゴル侵攻によって破壊されます。破壊された後にキエフの大門が作られ、ムゾルグスキー作曲の組曲「展覧会の絵」に出てきます。13世紀からロシアはロシアが兄でウクライナが弟と思っていますが、ウクライナは母はウクライナで子供がロシアという感覚でお互いに相容れません。またスターリンがウクライナから食料を奪って何百万人も餓死させられた歴史など、痛めつけられたウクライナがロシアから離れようというのも当然です。
  • ■半径56kmの自宅
    ロシアよりだったヤヌコビッチ大統領が追放されましたが自宅は半径56kmもあって、環状線が2つ入る大きさ。大統領専用の遊園地やホテルなど、やりたい放題で見学ツアーがあるそうです。また山のような部屋に置かれているテレビはパナソニックで空調はダイキンなんだそうです。
  • ■避難民の実態
    ウクライナ人の気質や性格を知らずに日本人は支援しているため、けっこう齟齬がでているそうで、コサック気質の話などを聞くと日本が考える支援は一考の余地ありです。また日本にきている避難民にもいろいろあり、支援している側もいろいろで、こんな話は報道で出てきませんね。ロシアはウクライナのロシア人が迫害されている理由で侵攻しましたが、日本人がアイヌを迫害しているとロシアが言いだすなど気になる話も出ていました。ウクライナ人とガチでつきあっている日本人は少なく、そらマスコミも小野さんに取材にいくはずです。

廣瀬大社 水の神

水の神、風の神といえば?

正解は廣瀬大社、龍田大社です。廣瀬大社は河合町川合にあり、地名通り佐保川、初瀬川、飛鳥川、曽我川、葛城川など、奈良盆地を流れる全ての川が合流する地にあります。ここから大和川になって大阪へと流れていきます。

廣瀬大社
廣瀬大社

天武天皇が水の神である大忌神を廣瀬大社に祀ったと日本書紀に出てきます。風水を治めれば天下が安泰するとして、龍田大社の風神と一対の社としました。龍田大社では風鎮めの祀りである風神祭を行い、廣瀬大社では大忌祭(おおいみのまつり)が行われます。別名が砂かけ祭で神社の砂を雨の代わりに投げて、このように雨を降らせていただいたら、田植が順調に進みます、と神様にお願いする祭りになっています。

リモート講座

昨日は岡山で講座を行い、一泊して今日は朝から津山城を登っているはずだったのが、リモートになってしまいました。

LEC梅田
LEC梅田

結局、LEC梅田に行ってリモート講座をして終わり。先日のセミナーもそうですが、大阪から出る仕事が、すっかりなくなってしまいました。新幹線も長い間、乗っていませんねえ。どっか遠いところのセミナーの仕事でも入らないかなあ