福島正則陣跡(関ケ原)

福島正則陣跡

東軍の最前線に布陣しています。大きな杉があり、月見の宮の大杉と呼ばれていました。月見の宮とは、春日神社の別名なんだそうです。この大杉は関ケ原合戦図屏風にも出てきます。ここから宇喜多秀家軍に攻めかかります。

福島正則の母親が秀吉の叔母だった関係から少年時代に秀吉の小姓となります。石田佐吉(三成)や加藤清正らと一緒に北政所が面倒をみました。やがて賤ヶ岳の七本槍として名をあげ武将としても有名でしたが、行政面の才能もありました。

福島正則は大酒飲みで酒癖が悪く、有名なのは「酒は呑め、呑め、呑むならば~」の逸話です。黒田長政の使者だった母里友信に酒を勧め断られたため、飲み干せたならば好きな褒美をとらすと言ってしまいます。また、黒田武士は酒に弱く、酔えば何の役にも立たないと罵倒したため、母里友信は、それならばと酒を見事に一気飲みし、褒美に家宝である名槍「日本号」を飲み取られることになります。

藤堂高虎・京極高知陣跡

藤堂高虎・京極高知陣跡

福島正則陣跡の後ろに布陣した第二陣にあたります。一緒の陣跡になっていますが、それぞれ3千ちかい兵を擁していたので隣同士で布陣していました。藤堂高虎は黒田長政とともに西軍の切り崩し工作を行い、家康の勝利に貢献します。七度、主君を変えたとよく言われますが、戦国時代、転職は当たり前。藤堂高虎は豊臣秀長(秀吉の弟)には心酔していたようで、よく仕え、亡くなってからも養子を支えました。身長が190cmほどだったとも言われています。

■京極高知
京極高知は近江佐々木家につながる名門です。兄が京極高次で大津城に籠り、立花宗茂ら西軍を釘付けにして関ケ原の戦いで兵力を減らす貢献します。京極高知は藤堂高虎と大谷隊と激突して功をあげ、宮津藩の初代藩主となります。京極氏の紋は平四つ目結で、目結紋系を持つのは佐々木氏の末裔になります。

■白餅
藤堂高虎の紋は「城持ち」をかけた3つの白餅です。若く金がない時に三河・吉田宿の茶屋で餅を無銭飲食し、事情を聞いた店主から路銀までもらって助けてもらいました。この恩を忘れず餅を旗印にしてがんばり、大名になった時に茶屋を訪れ餅代を返却しました。講談「藤堂高虎、出世の白餅」などで有名な話ですが、あながち創作でもなく、津藩の参勤交代では藩祖にあやかって吉田宿で餅が献上されていたようです。

本田忠勝陣跡

本田忠勝陣跡

「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」と言われた本田忠勝です。蜻蛉切という大きな槍を振り回し、数々の戦いに出陣しましたが、かすり傷一つ負わなかったと言われています。大河ドラマ「どうする家康」では山田裕貴さんが演じていました。

関ケ原に向かって徳川主力軍は秀忠が率い中山道を進み、真田にてこづっていました。福島正則など外人部隊が主力になってしまったため、本田忠勝軍は家康本陣の前に布陣したと言われていますが、本当のところはどうか分かりません。関ヶ原駅の近くの住宅街に陣跡があります。関ヶ原の戦いが終わった戦後処理では真田昌幸・信繁親子の助命を娘婿の真田信之とともに家康に嘆願します。真田に煮え湯を飲まされた秀忠などは猛反対でしたが、嘆願が認められて真田親子は九度山に流されることになります。

2023年度決算

消費税

2017年3月3日に設立した合同会社エムアイティエスも無事に8期目を迎えました。パチパチパチ!!

ひな祭りの日が設立記念日ですが、法務局へ登記をしに行った日がたまたま、ひな祭りだっただけです。登記した日が設立記念日になるとは全部事項証明書を取得するまで知りませんでした(笑)。期末は2月末にしましたので、3月になったので、さっそく決算です。といっても会計ソフトが勝手にやってくれるだけなんで、ほとんど確認だけです。申告は財務諸表に法人事業概況説明書や別表をつけて、そのまま電子申告です。

今年度はインボイス登録をしたので法人の消費税支払いがあります。申告freeeに消費税があるので、これを選んで2割特例を使って申告。そのままE-Taxで納付書を発行し、インターネットバンキングで振込をして終了。申告から納税まで家からできるので便利な世の中ですね。

インボイスが始まって、個人事業と法人の2つで消費税支払いになるので、そろそろ法人をどうするか検討しなくっちゃあ。

不破の関

不破の関

672年、大海人皇子軍が関ケ原で大友皇子側の近江軍を破った壬申の乱の後、不破の関が整備されました。中山道、北国街道、伊勢街道の分岐点が関ケ原で交通の要衝でした。東海道の鈴鹿関、北陸道の愛発関とともに古代三関の1つです。関所というと都への侵入者を防ぐ目的よりも、謀反者が東国に逃れるのを防ぐのが中心のようでした。壬申の乱で大海人皇子が関東の美濃・尾張で兵力を募ったことが背景にあるようです。

天皇崩御など非常事態が発生すると、朝廷は三関に固関使(こげんし)を派遣し関所を占めました。これが三関固関です。天平宝字8年(764年)、恵美押勝(藤原仲麻呂)のクーデターが失敗した時、吉備真備は愛発関を閉じて仲麻呂の息子がいる越前国への逃亡を防いでいます。

不破の関は藤古川の段丘崖に築かれ、広大な敷地でした。藤古川を超えて坂を登ると不破関西城門が旅人を待ち構えていました。不破の関は789年(延暦8年)に廃止されましたが土塁などは残っていたようで関ケ原の戦いでは宇喜田秀家らが関所の土塁を利用して陣所を築いていました。土塁の一部は低くなりましたが今も残っています。