岩﨑山城(北ノ庄城)

岩﨑山城(北ノ庄城)

八幡山城の「北の丸」脇から山道が出ていて、これが尾根沿いに百々神社まで行くことができる縦走路。途中に岩﨑山城(北ノ庄城)があります。

岩﨑山城は佐々木氏の支城ということでしたが発掘調査の結果、大規模な堀切や虎口が見つかり、どうも八幡山城と有機的な結びつきがあったようです。秀次の時代に八幡山城の北側を守るために佐々木氏の城に手を入れて有効活用したのでしょう。

縦走路は土橋の上を渡り、北側の土塁上に続いています。南側に郭が続いているのですが、これが藪だらけになっていて郭に入るのがなかなか大変。虎口などがあるはずですが、そこまでたどりつけませんでした。東側の石垣がある平虎口は見られました。岩﨑山城で有名なのが七つ池といわれる窪みで、水を確保するためのものだったのでしょうか、これは縦走路近くだったので見られました。

岩﨑山城から麓の北ノ庄神社に降りる道があったので、山を降り始めましたが誰も通らないため途中から藪と蜘蛛の巣だらけに。とりあえず道らしきところを通って麓へたどりつくと神社から少し離れたところへ到着(笑)。ハードな山城シーズンには、まだ早すぎたようです。

近江八幡山城

近江八幡山城

八幡山城ですが、なんてたってロープウェイ(近江鉄道)があるのがいいですねえ。片道4分(490円)乗車するだけで苦労せずに山城に到達できます。山城は好きですが、別に登山は趣味じゃないので山城まで楽に行ければ、それにこしたことはありません。ただそんな山城は岐阜城と松山城ぐらいしかなく、せっせと藪漕ぎしながら山道を登ることになります。

八幡山城を作ったのは秀吉で、秀次を入城させますが秀次が高野山で切腹した後に聚楽第とともに廃城となりました。信長が安土城を造った時に中山道より琵琶湖側に入った脇街道を整備し、安土と京都を結びました。近江八幡は安土に代わって、この脇街道や琵琶湖の水運など物流をおさえる拠点として造られます。脇街道は江戸時代に朝鮮通信使が通る道となったので朝鮮人街道とも呼ばれています。

八幡山城本丸跡は瑞龍寺となっていますが、石垣はそのまま残っていて枡形虎口などが確認できます。北の丸からは安土城、観音寺城がよく見え、西の丸からは琵琶湖が一望できました。ただ西の丸から出丸まで行こうと思ったら通行止めになっていました。

豊臣秀次館跡

豊臣秀次館跡

近江八幡の城下町を整備したのが豊臣秀次です。秀吉の姉の子で後継者がいなかった秀吉の養子となります。

本能寺の変で織田信長が亡くなり、その後の混乱で安土城が燃えてしまいました。ルイス・フロイトによると犯人は織田信雄が濃厚のようです。近江を支配することになった17歳の豊臣秀次は八幡山城を築き城下町を整備します。すぐ隣の安土城下の民衆を移し、楽市楽座を開設。琵琶湖がすぐ横ですので安土城と同様に水運を重視します。もっとも秀次についた宿老たちが優秀だったのでしょう。

八幡山城は詰の城で、山麓に居館が作られました。場所は市立図書館の裏手で八幡公園の一番西にある階段をひたすら登るとたどりつくことができます。ところが観光案内にも載っておらず看板もありません。というわけで誰もいません(笑)。

八幡公園も含め、平坦地の段が階段の両側に続いていますが、これが家臣団屋敷で、ところどころに石垣が残っています。一番上まで登ると石垣の壁があらわれ、これが秀次館跡。発掘調査で秀次が使っていた沢瀉紋(おもだかもん)が入った金箔瓦が発見されて秀次館跡と特定されました。なんで観光名所になっていないんでしょうね。

長光寺城(瓶割城)

長光寺城(瓶割城)

ようやく山城シーズンが到来しました。

ガチャコン(近江鉄道)に乗って武佐駅へ。駅から中山道の西宿を抜け工業団地の脇を通ると瓶割山の麓につきます。ここから山道に分け入って頂上まで登ると長光寺城があります。日吉神社裏から登るのが定番のようですが、工業団地のすぐ近くに案内版があったので、こちらから登りました。

広い主郭以外に4つほどの郭があり、主郭からは近江八幡城と琵琶湖を見ることができます。安土城もすぐ近くにあります。主郭の横には石垣の一部が残っていました。おそらく勝家の時代のものでしょう。

長光寺城はもともとは鎌倉時代中期に佐々木政尭によって築かれたと言われていますが、織田信長の上洛にあわせ、1570年に長光寺城を攻め落とし柴田勝家を配置しました。八風街道と中山道をおさえる城でしたので京都への路を確保する狙いがありました。

■瓶割城
信長に敵対する佐々木氏(六角氏)が攻めてきた時、柴田勝家は籠城して耐えましたが、味方を鼓舞するため兵に水を飲ませた後に水瓶を割り背水の陣で討って出ました。これが「瓶割り柴田」の異名となりますが、どうも伝説のようですね。長光寺城は別名、瓶割城と呼ばれています。

中村一氏時代の駿府城が見つかる

駿府城

朝、ニュースを見ていると駿府城発掘調査で秀吉時代の金箔瓦と天守台が見つかったと報じていました。

秀吉が小田原征伐で後北条氏を滅ぼした後、徳川家康に後北条氏の遺領となった関東への国替えを命じます。この家康を封じるために各所に子飼いの大名を配置しますが。駿府に入ったのが中村一氏で、この時に築城されたようです。

この中村一氏ですが、まだ和泉や紀州が秀吉に敵対していた時代に大坂の南のおさえとして岸和田城主となります。ところが小牧・長久手の戦いで秀吉軍主力が尾張へ展開している間隙をぬって、根来・雑賀衆、粉河寺衆が攻めてきます。岸和田城の攻防戦を何とかもちこたえ、秀吉軍と共に貝塚の千石堀城、積善寺城など相手の拠点を次々に落して紀州征伐となります。

南海電車に蛸地蔵駅がありますが、駅名の由来はこの時の岸和田城の攻防戦で落城寸前となった時、大蛸に乗った一人の法師と数千の蛸がどこからともなく現われ落城を救ったという伝説からきています。

中村一氏は秀吉の信頼あつく駿河一国をまかされ、関ケ原の戦い合戦前に亡くなります。この中村一氏時代の城跡ですか~あ。見てみたいな~あ。静岡からセミナーの話でも来ないかなあ(笑)。

正法寺山荘(砦)

正法寺山荘(砦)

関に羽黒山という大きな岩だらけの山があり、この山の麓の開けた所に正法寺山荘があります。山荘といいながら戦国時代は砦でした。小野川が大きく迂回して3方向を流れ、天然の濠となっており、要害の地に正法寺山荘が造られます。

正法寺山荘を造ったのは亀山城主の関盛貞。奥さんが日野城主・蒲生定秀の娘で六角氏に属していました。関から鈴鹿山脈を超えれば日野はすぐ近くでした。関氏は平家を祖とし家紋も揚羽蝶。関氏は神戸城、国府城、峯城、鹿伏兎と鈴鹿川一帯を支配していた土豪で地名をとって関氏を名乗ります。

■正法寺山荘
もともとは京都大徳寺の末寺として正法寺をこの地に創建し、関氏の寺と別荘を兼ねている土地でしたが、織田信長の伊勢侵攻のため砦として整備され、今も土塁、切岸、井戸跡などが残っています。国指定史跡になっていますが、単なる開けた場所なので城好きでもなければ、そう楽しめるところでもありません。平和な時期は連歌師宗長などがたびたび訪れ、歌会が開催されていました。

関氏は結局、織田信長に降参し、秀吉時代も家を守ります。賤ヶ岳の戦いでは居城である亀山城(古城)を滝川一益に落とされますが、秀吉軍による奪還戦が始まり、大河ドラマ「功名が辻」では武田鉄矢演じる五藤吉兵衛がこの攻防戦で戦死します。秀吉側が無事に奪還し、関一政が城主となり、松阪にいる蒲生氏郷の与力となります。

榎並城

榎並城
ようやく雨があがった大阪で仕事でしたので、ついでに榎並城跡へ寄ってきました。
三好長慶がまだ天下人でなく、売り出し中だった時代、三好一族の長老だったのが三好政長。出る杭は打たれるのは昔から変わらず、ついに両者は衝突します。摂津越水城(西宮にありました)を出陣した三好長慶が包囲したのが三好政長のこもる榎並城で、これが江口の戦いです。江口は旧大和川と淀川の合流地点であり交通の要衝でしたので、江口の遊女もおり、能にもなっています。
榎並城は8ケ月ほど持ちこたえたようです。膠着状態に陥ったので江口城、三宅城、中嶋城、柴島城、富松城、芥川山城など付近一帯の戦いとなり、榎並城から江口城に移っていた三好政長の戦死もあり、榎並城は放棄され三好長慶が摂津を支配することになります。
石山本願寺と信長との戦いでは本願寺側の野江城として再利用されたようです。榎並城近くを流れていた大和川も付け替えられ、今は住宅地に碑が建っているだけです。近くの野江水神社を含んだあたりが城郭だったようです。

釣山城(一関)

釣山城
電車の時間を気にしながら釣山城へ。東北新幹線・一関駅から少し歩いたところにあります。公園になっていますが、郭跡が残っています。一関藩主は伊達家の分家だった田村氏の居館跡があったそうで、頂上には田村神社があります。公園整備にともなう発掘調査によると、釣山を中心に東西450メートル前後、南北400メートル前後に及ぶと考えられている。
城ができたのはけっこう古く、天正年間にはあったそうで葛西氏の家臣が城主でした。秀吉の奥州仕置きで葛西氏が滅びると紆余曲折があって伊達氏が支配することになります。それ以前は坂上田村麻呂の陣地、源頼義、義家の陣地としても使われたと説明版にありました。

源義経最期の地・高館

高館
柳之御所のすぐ横にあるのが高館。
丘に造られた山城で初代・藤原清衡の時代から要害でした。柳之御所の詰城のような存在だったのでしょう。3代・藤原秀衡が源頼朝と対立した源義経を呼び寄せます。どうも、軍事の天才だった義経を総大将にして鎌倉との一戦を考えていたようです。ところが秀衡が死んだ後、源頼朝の圧力に耐えかねた4代・藤原泰衡が急襲し義経は自刃して果てます。自刃したのは、もう少し北にある衣川館という説もあります。
自刃する時間を稼ぐために弁慶が満身に矢を受けながら薙刀を杖にして亡くなります。これが有名な弁慶の立ち往生。「夏草や 兵どもが 夢の跡」という松尾芭蕉の碑が建っていました。
高館は北上川が眺められる高台にあり、複数の郭から構成されています。なかなか広い郭です。

奥州藤原氏終焉を見つめた平泉館(柳之御所)

平泉館(柳之御所)
初代、藤原清衡が作ったのが平泉館(ひらいずみのたち)で3代秀衡が再整備しました。源頼朝が大軍で平泉を攻めてきた時、4代泰衡が自ら平泉館に火を放ち炎上しました。後世、柳之御所と呼ばれるようになります。
■平泉館をめぐる空堀
発掘によって会議や接待などに使った2つの大きな建物と厩などの附属建物や庭園が見つかっています。平泉館は奥州藤原氏の政庁でした。また平行する2本の空堀が見つかっています。
2本の空堀は時期が異なり、併存していないようで、3代秀衡の頃は平泉館を囲む形で幅10メートル、深さ4メートルの空堀が巡っていました。この秀衡時代の空堀の一部が復元されています。こうなると中世城郭ですね。空堀は延長すると500メートルもあったそうで3ケ所で橋がかかっていました。
■奥州藤原氏の終焉
藤原秀衡は京都、鎌倉とも距離をとった局外中立でしたが、源頼朝にとって奥州は源頼義、源義家以来の源氏にとって遺恨のある土地ですから、ぶつかるのは必定。そこで藤原秀衡は流浪していた源義経を平泉に招き入れ、17万騎の武士団をまかせることにしましたが、義経が平泉入りして9ヶ月に死去。
このチャンスを逃さず源頼朝は自ら軍を率いて平泉に進軍。4代泰衡は義経を討ち取り、首を差し出しますが、頼朝の目的は違っていますので奥州藤原氏は滅びることになります。この歴史の舞台がこの平泉館でした。