最近、夏・冬になると「オヤジの会」という面妖な会から案内が届くようになる。
おかしいなあ、私が所属していたのは「イケメンお兄さんの会」だったのに、そちらの会からの案内はいっこうに届かず、面妖な会からだけ案内が届くようになってしまった。「オヤジの会」には少し前にオブザーバーで参加した記憶があるが、どうもそれ以来、正式メンバーになってしまったようだ。
しかも「オヤジの会」と言いながらオバサンもいる。集合時間に遅れそうになったのであわててタクシーに乗ろうとしてこけてしまい。足から血を流しながら参加するという御仁である。
「オヤジの会」はめちゃくちゃ国際的な話も飛び出し、あいかわらず面妖な会であったが、料理もけっこう凝っていて、コースの最後に好きなうどんを頼むことができ、カレーうどんを頼んところ、丼ではなく鉢に入ったカレーうどんが登場。料理も面妖な店であった。
おいしゅう、いただきました。
カテゴリー: 城・山城
浅井三姉妹がいた伊勢上野城
研修の帰り、久しぶりに伊勢上野城へ寄ってきました。伊賀上野城ではなく伊勢上野城です。
信長による伊勢攻めが始まった時、北伊勢の長野氏が信長に対抗しました。この長野氏の一族で分部氏に養子に入っていたのが分部光嘉、当時わずか17歳。。一族が徹底抗戦しようというなか、黒田官兵衛のように時流がみえていたのか和睦を主張し、いろいろと画策し、長野家に信長の弟である信包を招きます。信包が分部光嘉に築かせたのが伊勢上野城です。
街道を見下ろす小高い丘の上にあり連格式の曲輪で構成されています。今は公園になっていますが土塁などが残っており、ちょっとはずれた竹藪に入ると堀切なども見事に残っています。公園なのでスーツ姿でも大丈夫ですが、スーツ姿での竹藪はあまりおすすめできません。(笑)
■浅井三姉妹がいた
浅井長政が小谷城で滅んだ後、織田信包がいた伊勢上野城にお市の方と茶々(淀君)、お江、お初の浅井三姉妹がやってきます。やがて今の津城が完成すると、そちらに引越。伊賀上野城は分部光嘉が城代となります。秀吉が亡くなった後、関ヶ原の合戦が起きますが、その前哨戦として津城が攻められます。小西行長、宇喜田秀家などの西軍3万が津城の2千におそいかかりますが、津城主富田氏と共に戦ったのが分部光嘉。多勢に無勢で和議になりますが、その功績から近江の大溝に移り、大溝藩2万石は明治維新まで続きました。伊賀上野城は廃城となります。
■硬骨漢だった細野藤敦
この分部光嘉のお兄さんが細野藤敦。信長の伊勢攻めで徹底抗戦を主張していた中心人物です。和議をすすめた分部光嘉は、このお兄さんを追放しますが、なかなかの人物だったようで、最後まで徹底抗戦。最後は根来寺で秀吉とも戦っています。
戦国武将の間でも細野藤敦の武名は有名だったようで松坂に入った蒲生氏郷が7000石で迎え入れ、やがて家康の時代となった時に、戦国乱世の世をよく真っ直ぐに生きられたと家康に声をかけられています。
水走城跡
こう暑いと、さすがに山城には登れませんので近くの平城巡りをしています。
東大阪に水走(「みずはい」もしくは「みずはや」)という地名があり、阪神高速の水走出入口があります。平安時代の終わりから、この辺りを開発し、地名を元にして名乗ったのが水走氏。最盛期には現在の東大阪・大東・八尾を管理していました。
現在の水走はすっかり内陸部になり、繊維団地などがありますが、大和川付替以前には寝屋川など多くの河川や深野池などの湖沼があり、港がありました。水走氏は水運などをおさえ発展していきます。水走の隣に吉田という所があり、大和川の支流である吉田川が流れていたところで、不動産関係者に聞くと、吉田や水走というような名前の土地は地盤が軟弱なので買わない方がよいと言っていました。
水走氏は古代から続く氏族で、中臣氏と同じ天児屋根命(枚岡神社の主神)を祖とする平岡連の末裔。枚岡神社近くの五条町に平城を構え、城には寝殿、惣門、中門、厩屋や倉などがありましたが、今は住宅街になってしまい、江戸時代に作られた墓塔が建っています。
もともとは枚岡神社の神職でしたが枚岡神社の社領などを守る武士団として発展していきます。河内源氏に従い、源義家や義経の御家人もつとめていました。南北朝時代は楠正成と共に足利軍と戦っています。四条畷の戦いでも楠正成に味方しましたが、高師直らの攻撃を受けて降伏。河内国守護となった畠山氏のもとで既得権益を縮小しながらも維持し、室町時代を生き抜きました。江戸時代も神職を続けて現在まで続いています。
楠正行が本陣をおいた往生院城
近鉄・瓢箪山駅を南側に超えて少し行った先を東側に行くと往生院六萬寺というお寺があります。
家から自転車でいける近さですが、途中から生駒山を登るすごい坂になっていてお寺に着くころには息も絶え絶えに。高台ながら住宅街が拡がっていますが学校に通う子供とかは大変でしょうねえ。毎日、アスレチックです。
■創建は蘇我馬子の時代
往生院六萬寺から大阪が一望できます。歴史はめちゃくちゃ古く、崇峻天皇の時代に善信尼(日本最初の尼僧)が留学先の百済から帰って創建したのが桜井寺。蘇我馬子の時代です。この桜井寺が荒廃してしまったようで、天平時代に聖武天皇の勅願により跡地に六萬寺ができました。これが今の往生院六萬寺。奈良の大仏と正倉院が創られた時代です。
■楠正行の本陣跡
時代が下り、建武の親政が失敗した後、南北朝時代を迎えます。湊川へ向かう楠正成と長男の正行が分かれるシーンが世に名高い「桜井の別れ」。JR東海道線の島本駅のすぐ横が「桜井の別れ」の地と言われ碑が建っていますが、一説には六萬寺(桜井)が本当の「桜井の別れ」の場所と言われています。六萬寺は楠正行が幼少期に学んでいた所で、東高野街道が通っており、ずっと南に行けば楠の本拠地である河内長野。六萬寺は楠(河内)の勢力圏ですので、子供がわざわざ西国街道の桜井の駅まで行くのは無理でしょうから妥当な判断でしょうね。
楠正成が倒れた後、長男の楠正行が楠一族の頭領となり、南朝方として戦います。楠正行の最期の戦いが四条畷の戦いで、本陣がおかれたのが幼い時にいた六萬寺。楠正行は足利、高師直軍と戦いましたが敗退、自決しました。六萬寺もこの時、兵火で燃えています。
東高野街道をずっと北に上がった四条畷市が戦いの場所といわれていますが、六萬寺の近くに四条や縄手という地名が今も残り、本当の四条畷の戦いは四条縄手で行われていたのではとも言われています。いずれにしても近鉄・瓢箪山駅周辺は南北朝時代の戦場でした。
一度しか使われなかった水口城・御殿
関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は長束正家が城主だった水口岡山城を破壊。
水口は徳川家の直轄地となりました。やがて東海道の宿場町として整備され、3代将軍・徳川家光が、京都への上洛用宿として水口城を築かせました。今度は山城ではなく平城です。作事奉行は茶道や庭造りで有名な小堀遠州で、本丸には豪華な御殿が作られましたが、御殿が将軍の宿舎として使われたのは、結局、家光の上洛1回限りだったようです。何とももったいない話。
賤ヶ岳・七本槍の一人である加藤嘉明の孫が近江水口藩の初代藩主となり、途中、少し交代もありましたが、加藤家が幕末まで続きました。水口城の御殿は将軍宿所として作られたこともあり、藩庁などとして使うのは抵抗があったのか、二の丸に建てた藩庁で政務が行われました。
結局、100年ほど経ったころ、本丸の御殿は壊され、空き地のまま明治維新を迎えます。今は水口高校のグラウンドになっています。二の丸は市街化でなくなってしまいましたが、出丸があった部分に水口城資料館が造られています。
湧水を利用した堀に青い水をたたえていたことから、別名「碧水城」と呼ばれていましたが、堀の水はかなり濁っていました。城を取り囲む堀は残っていますが、石垣は乾櫓の跡など一部だけを残し、近江鉄道の線路敷設に使用されたようです。すぐ近くに近江鉄道・水口城南駅があります。
秀吉が築き、家康が破壊した水口岡山城
東海道に水口宿があります。
場所は甲賀忍者で名高い、滋賀県甲賀で東海道が通っており、土山宿を過ぎると鈴鹿峠で伊勢へ出ることができます。この東海道を見下ろす位置にあるのが水口岡山城。秀吉が家康に備えるために造った最前線の山城です。
発掘調査で高さ9メートルの石垣が見つかり、新聞にも大きく掲載されたので、気になっていた山城です。 東西の尾根筋に5つ曲輪を連郭式に配置し、各曲輪間には堀切がもうけられ、800メートル以上もの長さになっています。見事に曲輪が残っていて、発掘調査も引き続き行われていました。
■城主・長束正家
水口岡山城を造ったのは秀吉の重臣の中村一氏。小牧・長久手の戦いの後ですので、仮想敵国は家康です。やがて家康が秀吉に臣従し、江戸に移ると、中村一氏は東の備えとして駿河を守ることになります。その後、城主になったのが秀吉を支えた五奉行の増田長盛や長束正家。
長束正家は映画「のぼうの城」では平岳大が演じており、交渉にきた長束正家の横柄な態度に怒った成田長親が忍城をまくらに石田三成軍と戦います。
関ケ原の戦いで、長束正家は西軍に属して敗れ、水口岡山城に戻ったところを家康軍に攻められ最後は自害します。この後、水口岡山城は東海道から見える側を特に徹底的に破壊されました。豊臣時代が終わり、家康の時代がきたというアピールだったようです。
津堂城山古墳を活用した小山城
後藤又兵衛が亡くなった小松山から石川を渡ると、道明寺です。
ここには古市古墳群があり、藤井寺と八尾の境に津堂城山古墳があります。前方後円墳なんですが、南北朝時代に古墳の地形を利用して小山城が築かれました。河内国・守護職畠山氏の時代は古市にある高屋城が主城でしたが、安見氏を小山城に入れて高屋城の支城にしたようです。高屋城、小山城だけでなく近くにある丹下城も大塚山古墳を利用していて、この辺りの城は古墳ばかり活用しています。リサイクルですねえ。
小山城は古墳の丘陵を使って本丸、南西下に二ノ丸、堀を挟んで南西に三ノ丸と続いていました。城にしてしまったので古墳の形が崩れ、明治の頃は古墳ではなく城跡だとみんな思っていたようで、本丸などの小字名がつけられていました。ところが明治の終わりぐらいに石棺などが発見され、宮内庁はあわてて発見された後円部頂部を陵墓参考地に治定しました。この頂部以外は立入ができますが、城跡というより古墳の雰囲気ですねえ。
スーツ姿で十分に登れる城です。
14もの曲輪などが見つかった高取城
昨日の朝刊を見て、驚いたのが高取城の記事。
高取城とは、奈良にある日本三大山城の一つです。他の2つは岩室城(岐阜)と備中松山城(岡山)。高取城の最寄駅は近鉄・吉野線「壺阪山駅」で、駅から1時間ほど歩くと城の入口に到達できます。入口から350メートルほど登りますので、けっこう足にこたえます。高取城は曲輪の連なった連郭式の山城で、南北朝時代に造られ、幕末まで続いた城です。幕末には天誅組の変の舞台となりました。
高取城では今までもいろいろな調査が行われていましたが新たに空堀や曲輪跡が14ケ所も見つかりました。2013年にヘリコプターで、高取城の上空500メートルからレーザ計測。3次元航空レーザー計測システムを活用し、高取城の精密な立体地図を作成したところ、今までの縄張図になかった曲輪跡や堀切跡が見つかったそうです。
山城の多くは藪で覆われていますので曲輪跡を確認するだけでも大変。有名どころの山城でいいので、続々とレーザー計測をやってくれいなかなあ。三好長慶の芥川山城(高槻)などは、ぜひやってほしいですねえ。
お城ジオラマ復元堂から長篠城、高天神城という、なかなか渋い城のジオラマが発売されていますが、やっぱりオリジナルがよいので、ぜひとも山城の3次元計測データを公開してほしいですね。3次元プリンターを買って、3次元計測データをセットすれば、城の縄張を3次元で表現できます。
今までは縄張図をもって山城へ出かけ、堀切があることは図で分かりますが、深さまでは表現できないので、現地で確認します。3次元縄張を持っていけば自分が曲輪のどこにいるかも一目瞭然。藪で見えない堀切も確認できますので山城巡りが面白くなりそうです。ちょうど募集中の「ものづくり補助金」に応募して3次元プリンターを買おうかなあ。ウーン、絶対に落とされるなあ。(笑)
後藤又兵衛が散った小松山の戦い
大河ドラマ「黒田官兵衛」では後藤又兵衛を塚本高史が演じていました。来年の「真田丸」では誰が演じるんでしょうね。専門家派遣が昼過ぎに終わったので河内国分へ出かけてきました。
ここは奈良から天王寺へ向かうJR大和路線が通っています。京都から大阪へ大軍が移動するには大阪の東側に生駒山脈があるので、枚方から星田、河内森に入るか、奈良をずっと迂回して河内国分へ出るしかありません。
大坂冬の陣で大坂城の堀は埋められ大坂方は野戦で勝負するしかありません。そこで河内平野に出てくる河内国分の隘路でたたこうと大坂城を出陣。
■小松山の戦い
第一陣の後藤又兵衛が道明寺に着くと徳川軍が既に河内国分に展開していました。後続部隊が到着していませんが、このまま河内平野に入られるとまずいので、徳川軍が河内平野に向かう時、たちふさがる位置にある小松山に陣をはります。大和川がすぐ近くを流れていて進軍できるところが狭いため、小松山から鉄砲を討たれると実にイヤな所です。
小松山は玉手山の尾根にある山のひとつで頂上には老人福祉センター「やすらぎの園」があります。このあたりが激戦地となりましたが、今や住宅地。かなりの坂道で頂上まで上がると息もたえだえですが、眺めはとってもいいです。ハルカスが見えますが、当時は大坂城も見えたでしょう。
後藤隊は善戦し、徳川軍の損害も大きかったのですが、徳川軍は後続部隊が次々、到着するため多勢に無勢、8時間もの激闘の末、後藤又兵衛は戦死、後藤隊は壊滅します。この後、真田幸村が道明寺で徳川軍で一矢むくいますので来年の大河ドラマでも小松山の戦いは出てくるでしょう。
明智光秀が造った坂本城
宇佐山城へ行ったついでに坂本城へ寄ってきました。といっても城跡は何も残っていなくって碑があるだけ。中堀跡などは街道に姿を変えています。
坂本城は琵琶湖に面して作られた平城で、造ったのは明智光秀。坂本は比叡山の物資輸送のために港町として繁栄していました。織田信長は宇佐山城の城主となった明智光秀に比叡山焼き討ちの後、滋賀郡の支配をまかせ、坂本城を築城させます。この時に宇佐山城は廃城になったようです。信長は安土城をこの後に作るために坂本城で実験的なことをやっていたようで天守も造られました。一説には姫路城のような大天守と小天守が並び建つ壮麗な城だったそうです。
坂本城内から船に乗り、直接、安土城へ行けました。信長が琵琶湖に長浜城(秀吉)、安土城、坂本城(光秀)、大溝城(織田信澄)の菱型になる湖上ネットワークを作り上げますが、その第一弾となったのが坂本城です。
■坂本城の落城
新暦の6月21日に山崎の戦で敗れた明智光秀は勝竜寺城を抜け出し、坂本城を目指している途中、山城国の小栗栖周辺で百姓らに襲われ亡くなります。明智光秀の重臣だった明智秀満は山崎の戦いでの敗北を聞き、安土城を出て、坂本城へ向かいます既に坂本城は秀吉軍に囲まれていたた琵琶湖を馬を操りながら渡ります。これが名高い「明智左馬助の湖水渡り」。もののけ姫でアシタカがヤックルと一緒に海を渡るシーンが出てきますが、まるで「明智左馬助の湖水渡りだ!」と思った人も多いでしょう。
明智秀満は秀吉方の堀秀政に城にあった先祖代々の家宝を明け渡した後、天守に火を放ち、光秀の妻子もろとも落城。そんな潔い人物だったので安土城を退去する際、安土城を燃やしたのは明智秀満ではないのではという説もあります。「本能寺の変 431年目の真実」(文芸社文庫)では徳川家康の別働隊が安土城に火をつけたという説が出ていましたが、これもどうですかねえ。
焼けた坂本城は再建されましたが、後に大津城ができたので廃城となります。大津城、膳所城ともに琵琶湖に面して本丸が造られていて、坂本城がモデルとなりました。
■いよいよ清州会議
織田家の今後を決定する清州会議が来週、7月16日(木)に尾張の清洲で開催されます。出席メンバーは柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興の4名。1582年の今日あたり、秀吉はどう会議を乗り切るか思案に思案を重ねていたことでしょう。