GWだというのに、ずっと家に籠ってセミナー準備。早く寒くなって山城シーズンになんないかなあ
そうそう推古天皇の後を継いだ舒明天皇の不思議な歌が万葉集に載っています。天の香具山に登って国見をした時の歌で「国原は 煙立ち立つ 海原は 鴎(かまめ)立ち立つ」というフレーズが出てきます。奈良に海原はないので香具山の麓にある埴安の池を歌ったのではというのが定説です。
でも天の香具山からカモメが飛ぶ海原が見えたらどうでしょうか。
■古代、奈良湖があった
奈良盆地、縄文時代の遺跡は微高地で見つかりますが盆地の中心にはありません。弥生時代になってようやく見つかるようになります。古代、奈良湖があり弥生時代に水位が下がってきたようです。日本で一番古い官道と言われる山の辺の道が山麓を巡っているのは、残っている湖や湿地帯を避けるためのようです。また蘇我氏や葛城氏など古代の豪族が盆地の周辺を本拠地にしていたのも同じ理屈でしょう。舒明天皇の時代にも奈良湖の痕跡が残っていたようです。
邪馬台国説がある纏向遺跡には南北2本の運河がありましたし、斉明天皇も香具山の西から石上山(天理市)まで10数キロの運河を作りましたので奈良湖の痕跡をうまく活用して実現したのでしょ。
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巨勢寺跡
近鉄・JR吉野口駅から少し歩いた丘にあるのが巨勢寺跡。
飛鳥、御所、五條、吉野へそれぞれアクセスできる便利よい場所にあります。巨勢寺の創建は聖徳太子と言われ、飛鳥時代の瓦が出土しています。
巨勢氏の氏寺だったようで巨勢氏は武内宿禰の次男が祖で蘇我氏と関係があったのでしょう。蘇我馬子が物部守屋を滅ぼした時には巨勢氏は蘇我連合軍に加わっていました。巨勢氏は朝鮮半島との外交・軍事に従事していました。
巨勢寺跡近くに檜隅と呼ばれる地域があり、ここは東漢氏の本拠でオンドル跡が見つかっており、渡来系氏族が多く住んでいました。国際都市だったようです。
天誅組 五条代官所
五條市役所があり、ここが天誅組の舞台となった五条代官所跡です。今は碑だけが建っていますが、ここが幕末を揺るがした舞台ですねえ。
■天誅組として蜂起するも、ちゃぶ台返し
文久3年、尊皇攘夷派が朝議を握り、尊王攘夷の断行を祈願するため孝明天皇の大和行幸が決定します。
このまま討幕に向けようという考えがあり、吉村寅太郎らが大和行幸に先行して幕府の直轄地だった五條に入ります。天誅組として蜂起し、五条代官所を襲撃して討幕の旗をあげました。
ところが京都で”八月十八日の政変”が起こります。会津と薩摩が画策し急進派の公家と長州藩を排除するクーデターで大和行幸は中止に。歴史に名高い”七卿落ち”となります。そうそう時代祭の行列にも出てきます。
これで天誅組は大義名分を失い賊軍になってしまいます。天誅組は高取城を攻撃しますが山城を攻める能力はなく、城から放たれた大砲に怖れをなして撤退。ここらへんは司馬遼太郎の短編『おお、大砲』、『五条陣屋』に描かれています。
鎮圧にあたったのがは紀州藩、津藩、彦根藩、郡山藩などで天誅組は壊滅してしまいました。捕縛した浪士の寛大な処置を津藩から幕府にお願いしたのに、幕府が斬首したことが鳥羽・伏見の戦いで津藩が寝返る遠因になった説もあります。
吉野の花見
秀吉というと醍醐の花見が有名ですが吉野でも行っています。
実施したのは1594年で総勢5000人が参加した5日間の花見でした。同行したのは徳川家康、宇喜多秀家、前田利家、伊達政宗らの武将など。ただし3日間も雨が降り続いていたので怒った秀吉は何とかしないと吉野山に火をかけて下山するとダダをこね始めます。完璧なパワハラです。驚いた吉野の僧たちが全山で晴天祈願を行うと、翌日には晴天になったそうです。ほんまかいなあ(笑)。秀吉は紀州征伐では根来寺を焼き討ちした前科がありました。
秀吉が花見で本陣にしたのが南朝御所だった吉水院でした。やはり守るには適していたのでしょう。
静御前
後醍醐天皇の南朝拠点となった吉水院ですが山城の郭状になっており、吉水院は崖に懸け造りで作られていて攻めるのには難しい場所になっています。
後醍醐天皇以前にここを訪れたのが源義経。頼朝と決裂して義経追討に動いたため九州で再起するために大物浦から船出しましたが、暴風によって難破してしまい摂津に押し戻されてしまいます。郎党や静御前を連れて吉水院に隠れますが、ここでも追討をうけ静御前は捕らえられてしまいます。吉野は隠遁させましたが戦闘に関しては中立だったのでしょう。
鎌倉に送られた静御前が頼朝の前で「吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」と義経を慕う歌を歌ったのを頼朝が激怒。ところが北条政子が私も同じ立場なら同じことをすると取りなしてくれます。
後醍醐天皇・玉座
日本史で学んだ建武の新政。
鎌倉幕府を滅び、後醍醐天皇を中心に親政をはじめますが、やがて足利尊氏と対立。後醍醐天皇は吉野に逃れ南北朝時代が始まります。ということで吉野に残る後醍醐天皇の玉座です。ここが南朝の拠点でした。吉野山の上なので冬は寒かったでしょうね。
■よく分からない建武の新政
この建武の新政ですが、実はよく分かっていません。公家中心の政治が始まり武士の不満がたまって失敗したと昔、習いましたが、そんなことはなく、この時に生まれた政治システムがそのまま室町幕府にも引き継がれています。
東国を中心とした御家人と近畿を中心とした悪党(御家人じゃない武士)との対立など複雑な要素がからまっています。そもそも後醍醐天皇の討幕の動機は自分の息子を皇位につけたいことにあり足利尊氏はOKと言っているので二人が争う必要はなく、御醍醐天皇が吉野へ逃れた時、足利尊氏は「なんで~え」と思ったでしょう。
推古神社
近鉄平端駅近くを歩いて見つけたのが推古神社。
推古って、まさか推古天皇!と思ったらピンポンでした。このあたりの地名が額田部。
そうです!推古天皇の別名が額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)で、その額田部です。額田部一族の本拠地だったようで額田部湯坐連氏が推古天皇の養育を担当していました。大海人皇子(天武天皇)も養育した凡海氏(海部一族)から海人と名付けられましたので当時はふつうだったんですね。
部とは本来は人的な集団のことで全国に分布していて、ウチの近くにも近鉄・額田駅があり額田という地名が残っています。もともとは額に旋毛(つむじ)がある馬を献上したことから額田部の姓をたまわりました。馬飼に関係した氏族だったようです。
面塚(結崎)
結崎があるのが奈良県川西町。観光キャッチフレーズが「室町時代、空から能面とネギが降ってきた!」と、ぶっ飛んでいますなあ。
なんでも空に大きな音が響き、翁の面とネギが降ってきたそうで。降ってきた能面は塚に納められ、ネギ(大和野菜のネブカ)は近くで栽培されて評判になったそうです。他には観阿弥が夢を見たという説もあり、夢に見た場所へ行ってみると本当に能面とネギが落ちていたそうです。塚に納めたところが面塚となり、観世発祥之地の碑が建っています。
■お父さんの観阿弥
能を大成したのが観阿弥・世阿弥親子です。観阿弥は一説では伊賀出身で楠木正成の甥と言われています。名張には観阿弥創座之地の碑が建っています。やがて興福寺、春日神社などの神事能に奉仕する大和猿楽四座の結崎座の一員となり大和や都で活躍をします。結崎座という名前ですが結崎とはそれほど縁がなかったという説もあります。ただ結崎観世会を作るなど街をあげて能を推奨しています。
■世阿弥
息子の世阿弥はさらに能を発展させ、「秘すれば花なり。秘せずば花なるべからず」などの言葉で有名な演劇書「風姿花伝」を執筆します。能は足利幕府が庇護したこともあり茶の湯のように戦国武将の嗜みになっていきます。秀吉なんかは家康と前田利家とトリオで天皇の前で自ら演じたりしています。また『明智討』『柴田』など自分の活躍を演目にした能も作らせています。
春日若宮神社
春日神社の本殿から東に少し行くと摂社の若宮神社があります。春日若宮おん祭で有名な神社です。
春日若宮おん祭は大和一国を挙げて数日にわたり行われる祭りで、始まったのはなんと1136年。平清盛や源氏が台頭する保元・平治の乱の少し前で、武士が出現し、鎌倉幕府へと続く時代です。
春日若宮おん祭では大和武士による流鏑馬が奉納されていました。この流鏑馬に参加するのが大和武士の矜持でありアイデンティティにもなっており毎年、大和の武士団が交代で勤めていました。
この武士団から筒井氏、越智氏、箸尾氏、十市氏が「大和四家」と呼ばれる勢力に成長していきます。この大和四家がひっついたり離れたりと内紛を繰り返していたので山城が整備されていきます。山城は大和盆地を囲む山々に築かれ、70ほどは登りましたが、まだまだ制覇にはほど遠いですね。
大和は松永久秀の大和侵入もあり、しっちゃかめっちゃかになっていき最終的には信長の命で筒井順慶が大和を支配することになります。
志賀直哉旧宅
新薬師寺から春日大社に向かう途中にあるのが志賀直哉旧宅。今は奈良学園のセミナーハウスになっていて内部を見学できます。
ここで書かれたのが「暗夜行路」で、学生時代に読みましたが暗い小説だなあという印象しかありません(笑)。志賀直哉は短編がよく「小僧の神様」は面白かったです。でも「城の崎にて」は、またまた暗かったなあ。
志賀直哉旧宅は自身が設計したもので1階にはモダンなサンルームもあり、ガラス張りでめちゃくちゃお洒落です。