奈良の商店街

奈良でお仕事でしたので奈良町界隈を散策してきました。

奈良町
奈良町

インバウンドで賑わっていた東向商店街の人通りは少ないのですが一歩西側の小西さくら通り商店街はまあまあの人通りです。こちらの商店街はもともと地元客向けのお店が多かったのでインバウンドの影響はそれほどなかったようです。インバウンドコースは近鉄奈良駅から東向商店街を通って中谷堂の高速餅つきを見てから興福寺への道を登るコースでしたので、東向商店街にとっては大打撃ですね。

東向商店街の南側の餅飯殿商店街も同様で、こちらもインバウンド向きより地元客もしくは日本人観光客向けです。たたお水取りが中止となり桜シーズンもダメでしたので、それなりの打撃はあります。

いつものように餅飯殿商店街の萬々堂通則で、ぶと饅頭を買ってきました。ぶと饅頭って、もともとは遣唐使によって伝えられたものという説があるお菓子なんですねえ。知らなかった。

お茶屋御殿

枚方市駅から超ひらパー兄さん(岡田准一)で有名な枚方公園駅へ向かう時、京阪電車は大きくカーブしながら丘の横を通ります。この丘の上にあるのが御茶屋御殿跡展望広場公園。眼下には京阪電車と京街道、淀川、高槻の街が見えます。

お茶屋御殿
お茶屋御殿

枚方城・城主の本多政康は秀吉に従いましたが、秀吉は本多政康の娘である乙御前を側室にします。まあ側室が20人近くいて女好きで有名な秀吉ですからねえ。文禄四年(1595)に乙御前のために丘の上にお茶屋御殿を建てました。

秀吉が死んだあと、大坂夏の陣で本多政康は討死し、枚方城は廃城になります。ただ御茶屋御殿は残っていたようで、徳川秀忠の宿泊施設として改装されました。その後、延宝七年(1679)に起きた枚方宿の火災で焼失したと伝えられます。

御茶屋御殿は枚方城跡とは小さな谷を隔てたと高台にあち、出城を造るにはもってこいの位置ですね。

菟道稚郎子って誰?

こっちは全然、目的地ではなかった菟道稚郎子の墓。太閤堤のすぐ横にあったので寄ってきました。

菟道稚郎子
菟道稚郎子

菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)とよみます。菟道(うじ)というのは古い地名で平安時代ぐらいに宇治になったようです。近くに莵道高校がありますが、こっちは「とどう」と呼んでいます。

■菟道稚郎子って誰?
菟道稚郎子って、全然知らなかったのですが、応神天皇の息子で仁徳天皇の異母弟なんだそうです。応神天皇が亡くなった時、日本書紀によると皇位を譲り合って自殺したと伝えられています。ほんまかいな~あ。大体、応神天皇といえば筑紫で神功皇后から生まれ、神功皇后と共に反乱を起こした大和へ攻め上ってくる神武天皇の東征のようなことをやった人物です。

とにかく菟道稚郎子は宇治にあった桐原日桁宮に住んでいたそうで、これが宇治上神社または宇治神社ではないかと言われています。念のために宇治上神社の祭神を調べると菟道稚郎子、応神天皇、仁徳天皇で関係者ばかりです。

亡くなった後、日本書紀は遺骸を「莵道の山の上に葬りまつる」とされていて、そのまま読めば山頂の古墳のはずですが、宮内庁は宇治川のほとりを比定しています。ほんまかいな~あ。

太閤堤

京阪・宇治駅を降りて線路沿いに歩き、平等院には目もくれず太閤堤跡を目指します。

太閤堤
太閤堤

秀吉といえば戦を土木に変えてしまった人物です。三木城の周りに堤を築き水攻めを行い、小田原攻めでは石垣山一夜城を作り土木力で勝ってしまいました。城下町整備でも力を発揮し、大阪の太閤下水は今も現役で使われています。

■太閤堤で大坂ー京都が結ばれる
伏見城を造る時にも大改造を行っています。伏見の南側に拡がっていたのが巨椋池。巨椋池は明治の頃までありJR奈良線が桃山駅から東側に大きく回っているのは巨椋池を避けるためでした。

秀吉は宇治川、淀川等の付け替えを行います。この時に造ったのが太閤堤。巨椋池に分流していた流路をまとめて伏見に引き込むことで水深が確保できます。これで伏見港ができ大坂とを結ぶ船運ができました。坂本龍馬が寺田屋(船宿)を根城にできるきっかけは秀吉でした。

この太閤堤が宇治橋のすぐ下流で400mほど続いているのが発見されました。それが写真の碑です。現在、一帯で宇治川太閤堤跡歴史公園を建設中でした。

■小倉堤跡が近鉄に
秀吉はまた巨椋池の上に堤を作り伏見と奈良の距離を縮める大和街道にしました。池の上の堤なので大軍は横に展開できず奈良方面から攻められてもすぐ撃退されます。この堤跡の一部が現在の近鉄京都線の線路になっています。ですのでJR奈良線のように大曲りしていません。

全員集合が閉店

中央線堺筋本町駅改札口から徒歩5歩の立地にある「全員集合」。リーズナブルなこともあり大阪府中小企業診断協会の行きつけの店になっていて、夜飲みに行くと診断士との遭遇率がめちゃくちゃ高いお店です。知的生産の技術研究会・関西のセミナー後にもよく利用していました。

全員集合
全員集合

来週で閉店することを知り、びっくり。さっそくランチを食べに行き、おばちゃんに挨拶。コロナの影響でランチはいいのですが夜はさっぱりなんで、歳もとったし閉店することにしたとのこと。

14時から居酒屋になるし、店を出て5歩歩いて階段を降りたら、すぐ地下鉄に乗れるお店だったのに残念。お店は8/21(金)までやっています。

近衛基通の墓

同志社大学・田辺キャンパスがあるのが京田辺市。田辺キャンパスができる前は移転反対でバリスト(バリケード・ストライキ)が行われ、よく休講になっていました。今や今出川キャンパスへの統合がすすみ大学生を相手にした地元の事業者に影響が出ています。

近衛基通の墓
近衛基通の墓

同志社大学は高台にありますが南側が谷になっていて普賢寺谷と呼ばれ城跡がいくつかあります。

■近衞基通のお墓
日本史で五摂家について学びましたが近衛家の2代目だったのが近衞基通(もとみち)という人物。源平合戦の頃の関白で普賢寺関白とも呼ばれました。継母が平清盛の娘だったこともあり平家と親しく、源氏が台頭してからは引退して伽藍再興に尽力した普賢寺のある普賢寺谷に移り住んで亡くなりました。普賢寺谷の城跡を訪ねた時にお墓を見つけ、こんなところにお墓があるんだと思っておりました。

■神君 伊賀越え
今、ちょうど「流浪の戦国貴族 近衛前久」(中公新書)を読んでいるのですが近衛家の荘園の一つが普賢寺谷にあり別邸があったんですね。近衛前久(さきひさ)というのは上杉謙信、信長、家康と親交があった行動派貴族で関白です。信長に頼まれて島津と交渉したりしていました。

本能寺の変の後、堺にいた家康の逃避行が始まりますが、星田あたりから普賢寺谷に出たという説もあり、よく知っている近衛の土地だったという背景があったんですね。

建部大社

近江国の一宮といえば瀬田にある建部神社です。境内に茅の輪があったので、くぐりぬけてきました。

建部大社
建部大社

祭神は日本武尊(ヤマトタケル)で境内にはイケメンのヤマトタケルがパネルで展示されていました。日本武尊は亀山の能褒野で亡くなりましが、妃が住んでいた場所に日本武尊を「建部大神」として祀り、建部という地名がつけられました。もっとも、なんで建部大神なんて名前をつけたんですかねえ。ひょっとすると地名の方が先だったかもしれません。

祀られた場所は神崎郡建部で、現在の八日市駅から愛知川の間あたりにありました。白鳳4年(675)に瀬田の地に移ります。神社のあるあたりは神領という地名になっています。

源頼朝が伊豆に流される途中、建部神社に立ち寄り祈願しました。30年が経過し平家を滅ぼして源氏の再興がなります。上洛する途中に大願成就のお礼に建部神社を訪れています。ですので建部神社は出世開運の神様になっています。

都から東に向かう東山道の街道筋で、少し東に行った「鏡の宿」には源義経の元服した場所や平宗盛、清宗父子が切られた平家終焉の地もあります。

大きな黄色いアヒル

大きな黄色いアヒルが天満橋に来ているというので八軒家浜船着場に行ってきました。

ラバーダック
ラバーダック

ラバー・ダックです。あいかわらず剽軽な表情でプカプカと大川に浮かんでいます。展示されているのは8/31(月)までだそうです。高さは9.5メートルあり、作ったのはオランダのアーティストフロレンティン・ホフマン。世界中を旅してセーヌ川などでプカプカしています。2015年に中之島(バラ園)で見て以来ですね。あいかわらずでかいですねえ。

瀬田の唐橋

琵琶湖から唯一流れ出るのが瀬田川で、この瀬田川にかかるのが瀬田の唐橋です。京都人と言い争いになった滋賀人の決め台詞が「琵琶湖の水、止めたろか」という一言。以前に瀬田川を止めたシミュレーションが行われ、結果、大津などが水没してしまいました(笑)。

瀬田の唐橋
瀬田の唐橋

瀬田川を超えると京都まで一気に攻め込めますので、古代からこの瀬田川が攻防戦の舞台となりました。壬申の乱では、大友皇子と大海人皇子の最後の決戦場となり、瀬田川を突破された大友皇子は自刃することになります。

藤原仲麻呂の乱では朝廷軍が先回りし、瀬田の唐橋を焼いてしまったため藤原仲麻呂(恵美押勝)は湖西を北上することになり三尾城で破れてしまいます。

本能寺の変の後、安土城に向かう明智光秀を足止めするために山岡景隆が瀬田の唐橋と川のほとりにあった瀬田城を焼いてしまったため明智光秀が仮橋を架けるのに3日を要しました。

堂ノ上遺跡

近江国府から800mほど行ったところに小高い丘があり、ここが堂ノ上遺跡。看板はありますが、何もない原っぱです。当然、誰もいません(笑)。

堂ノ上遺跡
堂ノ上遺跡

堂ノ上遺跡は東海道、東山道、瀬田川を見下ろす高台にあり発掘調査によると奈良時代後半には建物が造られていました。近江国府と同じ瓦などが見つかっているので同時に造られたようです。一説には瀬田駅家との説もあります。

■駅家(うまや)とは
天武天皇時代に古代道路網が整備されました。当時は白村江の戦いからそう時間が経っておらず、唐などとの外交関係が緊張していました。緊急事態を伝える情報システムが全国に整備され、大路は幅12メートルの道がまっすぐ作られました。途中には駅家が作られ、ここで馬を取り換えて都を目指しました。伝達スピードはめちゃくちゃ早かったようで大宰府では発生した藤原広嗣の乱が大宰府から聖武天皇が行幸していた関宮(津市白山町)まで705キロあり、これを5日で伝送したそうです。1日140キロの移動です。

忠臣蔵で浅野内匠頭が吉良に切りつけた刃傷事件を起こし、使者は早かごを使って江戸ー赤穂間620キロを伝えるのに四日半かかりましたので、ですので駅家制度がいかに早かったかが分かります。

■崩壊した駅家制度
駅家には駅田という田が与えられ、この田から採れる稲を民衆に貸し付けた利息で経営されていましたが、持ち出しが多かったようで地元の名士が所管していました。天皇の崩御など緊急事態があると駅家で馬を乗りかえながら知らせが伝えられました。

ところが、これがだんだん拡大解釈されて単なる公務でも使われるようになり、駅を経営する側にとってはたまったものではありませんでした。律令体制の崩壊と共に道路も整備されず消えていき駅家もなくなっていきました。