堂島 古河ビル

furukawa201210.jpg堂島へ行く用事があったので懐かしい古河ビルへ寄ってきました。サントリー本社のすぐ近くにあります。 

新卒で入った会社が株式会社SRA。当時はソフトウェア・リサーチ・アソシエィツという長たらしい名前でした。西日本営業所があったのが、堂島グランドビル。1階には第一勧銀と本屋・オーム社が入っていて銀行や本屋にすぐ行けて便利でした。特にオーム社は仕事で使うコンピュータ系の本が揃っていてよかったですね。地下には紅茶専門の喫茶ムジカがありました。 

当時は阪急京都線・上新庄に住んでいたので阪急梅田駅で降り、地下街を20分ほど歩いて堂島グランドビルまで雨に濡れずに行くことができました。梅田のだっだ広い地下街は初めて行ったら絶対に迷いますね。あまりにすごいので「梅田地下オデッセイ」(堀晃)というSF小説までありました。 

堂島グランドビルの5階か6階に会社があったのですが、手狭だったこともあり、すぐ近くの古河ビルにもオフィスを借りていました。プロジェクトによって移動したのですが古河ビルにいることが多かったですね。古河ビルは地下街と直結しておらず、サントリー本社近くに地下街への降り口があり、雨が降っていたら古河ビルの入口まで走らないといけませんでした。 

プロジェクトが佳境に入ると深夜まで仕事をすることもしばしば。そのまま古河ビルに泊まり込んでしました。冬で寒いからリストを体に巻きつけて寝たこともありましたが、リストはゴワゴワするだけで、暖かくないことを学習しましたね。古河ビルの地下には床屋、郵便局、歯医者があり、こっちも便利なビルでした。 

石切神社 日下(くさか) 神武天皇の上陸地

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石切神社へ行くとちょうど秋祭りで太鼓台の宮入をしていました。枚岡神社の太鼓台と違って、クラッカーは鳴るし、花吹雪はあるし、なかなか演出が派手。
いつもはお百度参りでにぎわう境内を、ちょうど日下(くさか)の太鼓台が宮入していました。この日下(くさか)ってとっても古い地名で、神武天皇が東征で、たどり着いたのが日下津。古代、大阪は海で、この近辺に港(津)があり、ここから大和へ攻め入りましたが長髄彦に負けて遠く熊野へ迂回して、大和へ攻め入ります。
神武天皇を助けたのが、神武東征以前に大和へ舞い降りていた天つ神「饒速日命(ニギハヤヒ)」。物部氏の祖先です。その関係なのか石切神社は物部の神様になっています。たぶんこのあたりは古代から物部の土地だったんでしょうね。
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真田幸村 最後の地

aijinnjya201210.jpg先日、四天王の古書市へ行ったついでに安居神社へ寄ってきました。四天王寺・西大門から西にずっと坂になっていて、坂の途中に安居神社があります。ちょうど一心寺の前になります。 

一心寺の裏側が天王寺公園になっていて、公園の中に茶臼山古墳があります。大阪冬の陣では茶臼山一帯が徳川家康の本陣となり、大阪夏の陣では真田幸村の本陣となって「茶臼山の戦い」が行われました。 

茶臼山の戦いでは真田幸村の突撃で、家康軍は総崩れ、旗本も逃げ出し、この時に本物の家康は死んだという説があり、 堺市の南宗寺には「家康の墓」があります。大阪人は太閤さんを滅ぼした家康を嫌いなので、プリンセス・トヨトミめいた話がまことしやかに残っています(笑)。 

真田軍の攻撃であわてふためいた家康の本陣は大混乱。三方ヶ原の戦いで信玄に敗れて以来、倒れることがなかった旗指物が倒れてしまいました。大久保彦左衛門が家康からの質問に「いいや、倒れなかった」と頑固に主張して徳川家の名誉を守った逸話が残っています。 

後詰がない真田軍も追撃が続かず、真田幸村はこの地で討ち取られました。境内には真田幸村戦死跡之碑が残り、六文銭の旗がはためいていました。 

真田幸村の突撃は敵方の多くの書物に残されており、島津は「真田は日本一の兵」と記録しています。 

宣長ってどんな人?

motoori201210.jpg松阪にある「オーダシャツのHashimoto」へ寄った時に「宣長ってどんな人?」という冊子をもらってきました。橋本さん、ありがとうございます。 

宣長とは本居宣長のことで、今年は古事記編さん1300年ですので、注目はやっぱり本居宣長でしょうね。古事記は712年にまとめられましたが、伝わっている古事記は1371年に書き写された「真福寺本古事記」が一番古いものになります。と言うことは原本に何が書かれていたかは定かではありません。他の話が入ったり、間違った字で写していることもあります。 

そこで本居宣長が始めたのは古事記と同時期に出来た万葉集の研究。古い言葉を正しく読めるところから始めました。そして35年かけて出来たのが「古事記伝全44巻」、古事記の解説書です。現在の古事記の基本はこの解説書から始まっています。 

■酒は3杯まで 
この本居宣長ですが、筆まめで死ぬまで細かく記録をつけています。家計簿まで残っているので、いつ何をしたかが、よく分かります。若いころはいろいろと羽目をはずしていたようで京都へ遊学していた頃は、よく酒を飲んでいたようで。噂を聞いた母親から、「この手紙が届いた後は、3杯以上のお酒を飲んではダメ」とダメ出しを受けています。 

■参宮幸便 
江戸時代、手紙は飛脚が運んでいましたが、小さな村などに届けるのは日数もかかり大変。そこで全国にいた宣長の弟子が考えたのが参宮幸便。本居宣長の家は参宮街道から一本入ったところにありましたので、伊勢神宮へお参りする人に届けてくださいと預けていました。また伊勢参りの後にできたら返事ももらってくださいと頼んだそうです。 

写真は本居宣長の家の跡地。家そのものは松阪城に移転し、本居宣長記念館になっています。ここからは松坂城が目の前に見えました。 

■松阪の一夜 
師である賀茂真淵と会ったの生涯たった一度。昔の教科書に載っていた逸話ですので年配の方はよくご存知ですね。賀茂真淵は伊勢参りの途中、松阪の新上屋に泊まり、宿から連絡を受けて本居宣長と会っています。この新上屋って、商店街の真ん中にあったんですね。知らなかった、今度、松阪へ行った時に探してみます。 

枚岡神社 秋郷祭り2012

hiraoka2012.jpg今日、明日は河内一ノ宮・枚岡神社の秋郷祭り。河内のお祭りは「だんじり」か「ふとん太鼓」が定番ですが、枚岡は「ふとん太鼓」です。祭は14日、15日の曜日固定ですので、平日にあたることも多く、今年は日曜にうまい具合にあたりました。 

祭が平日になると近辺の企業はもちろんお休み。従業員が、ふとん太鼓を担ぎますので仕事になりません。さすがに小学校や中学校はやっていますが、担ぎ手になっている子供たちは早退したり、休んだりします。先生もよくわかっているので見て見ぬふりとなります。(笑) 

枚岡神社は生駒山の裾野にありますが、けっこう高台です。麓の一の鳥居から急な坂を登るのですが難所の一つが枚岡駅の線路越え。近鉄の係員がダイヤ表を片手に少し長めの間隔の時にふとん太鼓を一気に通します。踏切を抜けるとまた急坂が待っていて登り切るとようやく枚岡神社です。この踏切を23基通しますので、大変です。 

電車は徐行になりますが、なんで駅にこんな人だかりが出来ているんだと怪訝そうな顔をする乗客ばかりですね。

断夫山古墳(熱田神宮)

kofun201210.jpg熱田神宮のすぐ近くに熱田公園があり、公園の中には熱田球場があります。公園にはこんもりとした森になっているところがあり、これが東海地域最大の前方後円墳「断夫山古墳」。6世紀初頭に築造されたと言われています。 

先日、行ってみましたが東海地域最大と言いながら全長151メートルほどと、こじんまりした古墳でした。堺の大仙山古墳のように1周2.7kmもあって、1周するだけで息も絶えだえになることはありません。断夫山古墳の外周をまわると、きちんと円や方墳の形が分かり、なかなか見応えがあります。 

古墳に葬られているのは、どうも尾張氏の首長であった尾張連草香(おわりのむらじくさか)のようですね。熱田神宮は尾張氏の本拠地で、宮司は代々、尾張氏が勤めていました。 

壬申の乱の時には桑名まで来た大海人皇子に協力して、大友皇子を倒すのを手伝いしました。と言言うよりも、尾張氏を当てにして吉野を脱出したのが真相のようです。大海人皇子の乳母は尾張の大海氏の娘で、大海氏は尾張氏の同族です。 

昔の熱田神宮と言えば、熱田台地の端にあり、すぐそばが海だったため、断夫山古墳は船から見るよいランドマークになったでしょうね。

源頼朝が生まれたのは名古屋

yoritomo201209.jpg今日は日曜なので大河ドラマ「平清盛」ですなあ。 
あまり知られていませんが源頼朝が誕生したのは名古屋です。 

源義朝の正室は藤原季範の娘・由良御前で、この藤原氏は熱田大宮司。熱田神宮の目の前に平安時代、別邸がありました。由良御前は身ごもった後、実家(熱田)へ戻り、ここで源頼朝を産んだそうです。現在は誓願寺というお寺になっています。最寄駅は地下鉄・神宮西駅です。 

寺の前に右大将頼朝公誕生舊地の碑があります。頼朝のお父さんふだった源義朝は平治の乱で敗軍の将となり、亡くなったのは尾張国野間(愛知県知多郡美浜町)で裏切りが原因でした。源氏は愛知県と深い縁があるんですね。 

源頼朝、織田信長、豊臣秀吉は3人とも名古屋生まれながら、鎌倉、安土、伏見を本拠地にし、名古屋とはあまり縁がないですね。

全国でただひとつ超宗派のお寺 覚王山日泰寺

nitaiji201209.jpg覚王山日泰寺へ。 

名古屋市営地下鉄・東山線の覚王山駅から、参道を上がると覚王山日泰寺です。全国でここだけという超宗派のお寺です。昨日は弘法の日(21日)ですので、参道には屋台があふれていました。 

事の発端は明治31年にお釈迦さんの遺骨である仏舎利が発見されたことにさかのぼります。インドで、骨壷が英国の手で発掘され、古代文字を解読したところ本物の仏舎利だったことが判明しました。この仏舎利が、英国からシャム国(現在のタイ王国)へ譲渡されています。 

明治33年にこの仏舎利の一部が、シャム国王ラーマ5世から日本へ贈られました。受け取った日本では大騒ぎ。どこかのお寺に収めると、それぞれ宗派があるので角が立ちます。そこで超宗派の寺として仏舎利を安置するために作られたのが覚王山日泰寺です。 

日泰寺の泰は仏舎利を贈ったタイ王国をあらわします。また覚王山の覚王とは、釈迦の別名。本堂にはタイ語の扁額がかかっていました。また参道の商店街にはエスニックで個性的なお店が並ぶことで有名です。ただし弘法の日は年配層が多かったですねえ。

尾張の物部氏

mononobe201209.jpg午後、名古屋の企業へ専門家派遣へ。午前中に前から気になっていた物部神社へ出かけてきました。物部神社は地下鉄桜通線・車道駅を降りてすぐの所にあります。祭神は物部氏の祖である宇摩志麻遅命。式内社ですので古代からあり、都会の一角によく残りましたね。 

またここから歩いてすぐのところに高牟神社があります。JR千種駅のすぐそば。ここは物部氏の集落の一郭で、武器を納めた倉があり、現在の高室神社になっています。高室神社のあたりは常世の草香島(くさかじま)と呼ばれ清泉が湧き出ていました。今も境内に応神天皇に水を献上したと言われる古井が残っています。 

私が住んでいる東大阪や八尾も物部の土地で、神社の神様と言うと決まって物部系です。おまけに八尾には大聖勝軍寺という寺があり、ここが物部守屋の稲城址。蘇我馬子、聖徳太子連合軍に敗れた場所で、近くには物部守屋の墓まであります。ほんまかいな(笑) 

東大阪や八尾は今は大阪の東部ですが当時は海岸沿いで草香津から神武天皇が攻め入り敗れた場所でもあります。名古屋も古代の平野部は海で、名古屋城から熱田神宮あたりが海岸近くの高台でした。大阪も尾張も物部の土地で、不思議なご縁がありますねえ。 

八幡山古墳(鶴舞)

kofun20120905.jpg名古屋市新事業支援センターへ行く時、名古屋駅から地下鉄桜通線で吹上駅へ出るのですが、今日は桑名駅からJRに乗ったので名古屋駅で中央線に乗り換え鶴舞駅で下車。 

鶴舞公園を抜けて、前から行きたかった八幡山古墳へ行ってきました。東海地方最大の円墳です。古墳というと木々が生い茂っていて、古墳だと分かりにくいんですが八幡山古墳は山の形がよく分かり、また円墳を取り巻く堀もくっきり残っています。戦時中、陸軍が高射砲陣地を造るために周囲の樹木は切ったそうで、それで山の形がよく分かるんですね。 

八幡山古墳があるあたりは高台になっていて、住宅地などはかなりの坂になっています。御器所台地と呼ばれ、名古屋城や熱田神宮はこの台地沿いにあります。大阪で言えば四天王寺や難波宮がある上町台地のようなものですね。八幡山古墳以外にもたくさん古墳がありましたが名古屋刑務所を作る時に壊してしまったようです。 

古墳周辺にはぐるっと回れるように道がついています。八幡山古墳を見た後に吹上ホールへ行こうとしたら、名古屋の道は東西南北がグチャグチャですので迷ってしまい、近所の人に道を聞いて、ようやく名古屋市新事業支援センターへたどりつきました。