茅ヶ崎館

茅ヶ崎館

江ノ島で過酷なロードが終わった後は茅ヶ崎駅へ移動。海外沿いにある茅ヶ崎館へ。1899年(明治32)に日本郵船・機関長だった人が作った別荘です。現在は和室4室の旅館として営業しており、明治時代の唐傘天井風呂などレトロな旅館になっています。定員12名なので宿を借り切って、まずは旅館内のツアー。樹木希林の「命みじかし、恋せよ乙女」の撮影で使われた和室などを当時のエピソードを聞きながら見学。樹木希林は茅ヶ崎館の女将を演じ、これが遺作になりました。

松竹の撮影所が蒲田から大船に移ったこともあり、東京物語や秋刀魚の味で有名な小津安二郎監督の定宿でもありました。他にも、この宿は本が書けると新藤兼人監督、井筒和幸監督、是枝裕和監督らがよく利用していたそうです。

晩御飯は18:30~21:00頃までの宴会で、最後にすき焼きが出てきて旅館の人が焼いてくれるのですが、煮詰まった所にカレー粉を加えた「カレーすき焼き」は小津監督が自ら来客に振舞ったそうで、名物料理となっています。大変、おいしゅういただきました。

江ノ島

江ノ島

ATコマンド、NifTerm、ComNifty、魔法のナイフ、茄子Rという呪文のような言葉を聞いて、まったく違和感がない一定集団が日本に存在します。この集団の中にさらにFLicという変なフォーラムに参加していた集団がいました。この集団が、さらに細分化し、全国にあった中小企業診断士のオフライン勉強会に参加しているメンバーの残党がいまだに年1回、集まっています。

今年島は江ノの大橋のたもとに集合。江ノ島って初めて行ったのですが坂道と階段だらけなんですね。いやな予感はあたり、ひたすら登ることになります。眺めはいいんですが、炎天下で歩くには苦行です。奥津宮に到着して、今度は下りです。オイオイ、これをまた登って帰るのかなと思ったら、岩屋から船が出ているんですね。観光客で一杯でしたが船もピストン輸送しているので、しばらく待つと江ノ島を脱出できました。

舎人親王邸宅跡

日本の正史である「日本書紀」を編纂した人は誰?

もちろん舎人皇子で、720年に日本書紀を完成させました。日本史で習いましたね。

お父さんは天武天皇で、兄弟は高市皇子、草壁皇子、大津皇子、忍壁皇子、長皇子、新田部親王と「天上の虹」登場人物がオンパレードです。新田部親王、長屋王とともに皇親政権を樹立しますが、やがて藤原氏側になり、結果的に藤原政権の成立に協力します。

奈良そごう

この舎人親王の邸宅跡が先日、発見されました。木簡などは見つかっていませんが、4町分もある広い敷地の建物跡が発見され、有力視されています。場所は奈良市役所近くの佐保川沿いで当時の左京三条三坊四坪です。建設現場の発掘調査で見つかり、既に埋め戻されています。平城京に隣接していた長屋王の邸宅跡があった奈良そごう(現ミ・ナーラ)から徒歩5分ですので、平城京へ出仕するには交通至便なところでした。

三木鉄道 廃線跡

法界寺を降りて加古川三田線の道路へ出ると、すぐ隣に「別所ゆめ街道」という遊歩道があります。これって三木鉄道の廃線跡です。厄神駅(加古川線)と三木駅を結ぶ路線で、もともとは国鉄の路線だったんですね。第三セクターで存続していましたが、三木市から神戸市内へ向かう人は神戸電鉄粟生線を使うので乗客の減少が続いて2008年に廃線となりました。

三木鉄道 廃線跡
三木鉄道 廃線跡

三木市から加古川へ向かう時はショートカットになりますが、神戸のベッドタウンなので難しかったのでしょうね。もともとは三木駅から川を渡ったところにある別所駅が始発駅でした。ここに公園が作られて西這田駅跡まで「別所ゆめ街道」という遊歩道ができ、駅跡には碑などがあって楽しめます。

別所長治の墓

法界寺裏山に法界寺山ノ上付城があります。麓の三木城を攻める付城でしたが、麓の法界寺には三木城城主・別所長治の墓所があります。

別所長治の墓
別所長治の墓

別所長治は長篠の戦が行われた天正3年(1575年)には信長に謁見して、天正5年の紀州征伐にも兵を出しています。信長との関係がよかったのですが、天正5年10月に秀吉が播磨平定で送り込まれてくると、最初は協力していましたが、天正6年(1578年)2月に離反して三木城に立て籠ります。離反した理由はよく分かっておらず、秀吉の上目線に嫌気がさした、毛利氏経由で足利義昭から工作を受けたなど、いろいろと説がありますが別所氏以外の播磨衆が反信長だったので連携したのでしょう。

織田軍は三木城の周りに付城と城間をつなぐ土塁を築き上げ、兵糧攻めを行います。「三木の干殺し」と呼ばれ、三木城は2年間、持ちこたえましたが最後は城を受け渡し、別所長治は自害します。享年は23歳と26歳説があり、いずれにしても若武者でした。

法界寺山ノ上付城

這田村法界寺山ノ上付城法界寺の背後の山上にある付城です。天正7年(1579)4月に織田信忠が築いた6箇所の付城の1つで三木城を見通すことができます。城主は、羽柴秀吉の重臣・宮部継潤と伝わっています。

法界寺山ノ上付城
法界寺山ノ上付城

■宮部継潤
宮部継潤の出身は近江・国友近くの宮部です。秀吉の中国攻めでは山陽を秀長が山陰を宮部継潤が指揮していました。やがて鳥取城主となり、秀吉が山崎の戦い、賤ヶ岳の戦いと東に転進するなか西を守ります。秀吉の信頼が厚かったんですね。晩年は秀吉の御伽衆になります。

這田村法界寺山ノ上付城は大規模な付城で主郭、副郭と兵の駐屯地である段状の平坦地群が残っています。毛利方が明石から三木城へ兵糧を搬入するのを防ぐための最前線でした。また6条からなる土塁(朝日ヶ丘土塁)が残っていて、なかなか見ごたえがあります。

石山合戦の堀跡

信長方の天王寺砦から石山本願寺まで上町台地がそのままつながっています。石山本願寺にとっては防衛上、とってもまずいので、どっかに堀などをあったはずです。天王寺砦から北に向かうと「いくたまさん(生國魂神社)」があります。もともとは石山本願寺のすぐ近くにあったのですが、秀吉が大坂城を造る時に現在地に移されました。この生國魂神社の北側に千日前通りが通っているのですが少し下がっています。近くに大坂七坂の一つである真言坂があり、千日前通りから生國魂神社があがる坂なんですが、現在はスロープのようになっています。

千日前通り
千日前通り

江戸時代の名所案内などを見ると、急な石段だったので千日前通りは、けっこうな窪地だったようです。これが石山合戦で使われていた堀跡なんですかねえ。ちょうど谷九のあたりです。さらに北側の谷六まで上がると空堀商店街や真田丸で有名な大坂城の外堀があり、反対に南側の天王寺には和気清麻呂が掘った運河跡が残っています。

大和角山城

大和角山城

大和角山城
大和角山城

丘陵の先端部を利用して築かれている城跡で葛上神社一帯にあったようです。ただ土塁などは残っておらず、唯一、境内の北側に空堀が残っていました。北、東、南が崖になっていて、西側の防御をしっかりすればよい立地です。ただ住宅地になっているので防御の遺構などはありませんでした。誰がいつ造った城跡なのかは、まったく不明です。近くに富雄川が流れているので堀代わりだったのでしょう。

スマートファクトリー

年末にスマートファクトリーの対談をしてきたのですが記事となってNTT西日本のサイトにアップされていました。内容は製造業におけるDXで、しゃべった内容がうまくまとめられていました。脱線した話などは当然、カットです(笑)修正しようがないので変な顔で映っています。

止まらない工場「スマートファクトリー」とは
止まらない工場「スマートファクトリー」とは

採用がなかなかできないので、いかに工場の生産性を上げるかがカギで、IoTなどを駆使してスマート化が進んでいます。三重県の製造業の中には作業指示などはタブレットやモニターで一切の紙をなくした会社もあります。

→ 製造業の未来を支える止まらない工場「スマートファクトリー」とは

雪丸

雪丸
雪丸

達磨寺には雪丸のお墓があります。雪丸というのは聖徳太子の飼犬で、白くて、とっても賢かったそうです。人の言葉を理解し、お経も唱えたそうですが、ほんまかいなあ。雪丸像がいつ造られたのか謎ですが江戸時代後期の大和名所図会には出てくるので、この頃にはあったようです。

これに目をつけたのが王子町観光協会。王寺町の公式マスコットキャラクターとして、ゆるキャラにしちゃいました。頭には烏帽子をかぶっています。JR王寺駅から達磨寺までは雪丸ロードになっていて、道路のアチコチに足跡というか肉球跡がついています。