春日宮天皇妃陵から鳥見山を経由して山道をひたすら歩くと高束山・山頂に城跡があります。登山道の途中に高束城についての案内板があるので、場所はすぐに分かるのですが城へ登る道がない。仕方ないので山裾をまわって一番下の郭から何とか入りました。実は反対側に虎口があり、帰りは簡単に登山道へ出ることができました。登山道に何の案内もないので、この入口を見つけるのはちょっと大変。
高束城は、高束山の1ケ所だけでなく、付近の尾根4ケ所に築かれた巨大な城になっています。縄張り図をもとに探したのですが、他の3つは結局、分からずじまいでした。
高束城を造ったのは長谷寺に関係した藤原家賢という人物で898年に造ったという記録が残っています。戦国時代には松永久秀の攻撃を受け1564年6月1日に落城し、城主だった藤原順賢も討死したと案内板に書いてありました。高束山をずっと降りていくと石畳の道などがあり、さらに降りると長谷寺に至ります。
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春日宮天皇妃陵 ひょっとしたら山城跡?
奈良の榛原駅から鳥見山へ向かう途中にあるのが春日宮天皇妃陵。
春日宮天皇というのは天智天皇の王子だった志貴皇子のこと。里中満智子「天上の虹」にも登場します。権力闘争の宮中から離れ、歌人として文化的に生き、万葉集にも歌が採用されています。息子が光仁天皇となり孫が桓武天皇となります。自身は天皇になることはなく光仁天皇によって春日宮天皇の追尊をうけます。
志貴皇子の妃は何名かいるのですが春日宮天皇妃陵は紀橡姫(光仁天皇のお母さん)が葬られています。ただし明治27年に治定されていますので、本当かどうか分かりません。尾根筋の細い道を歩いた山頂に陵はあります。この尾根筋の道ですが途中で、どう見ても堀切と土橋のセットがありました。山頂は郭を造れる広さがあり、ひょっとすると、まだ知られていない山城かもしれません
神足城 復元された勝竜寺城の外郭
JR東海道線に長岡京駅という駅があります。少し前までは神足(こうたり)駅という名前でした。地名の由来は「神様が来てくれた」という意味の「神至り(かむいたり)」と言われています。
駅から少し行ったところに神足神社があります。神足神社には西岡36人衆の一人神足氏の神足城がありました、城は単郭だったようです。ところが勝竜寺城の築城に際して曲輪の一部として取り込まれてしまいました。
以前、神足神社に行った時は境内入口近くの右手に細長い藪があって、うっそうとした藪の中に入り込むと土塁や土橋を楽しむことができました。
先日、久しぶりに行ったら滅茶苦茶きれいに公園として整備されていてビックリ。説明版も設置されていました。写真の左手が勝竜寺城の外郭土塁で真ん中に虎口があります。右手から空堀にかかる土橋を渡って虎口に侵入しますが、両側の土塁から横矢がかかるようになっています。これを”横矢掛かりの虎口”と言います。公園化に向けた発掘調査では神足城時代の土塁や空堀が見つかったそうです。
勝竜寺城 光秀が脱出した城
勝竜寺城といえば細川忠興・ガラシャ夫妻ゆかりの城として有名で、ここで新婚生活を過ごしました。場内には二人の銅像が建っています。
戦国時代末期には三好三人衆が勝竜寺城を支配していました。織田信長の上洛で三好三人衆を追っ払った後は細川藤孝(幽斎)が城主となります。本能寺の変が起きた時には明智光秀の城でした。
山崎の合戦は秀吉軍、光秀軍ともに一進一退の攻防が続いていましたが、秀吉軍の奇襲などから明智軍が崩れます。明智軍は勝竜寺城に撤退しますが秀吉軍も前線部隊の消耗が激しく、日没でもあり追撃戦は本格的ではありませんでした。
明智軍から逃亡する兵が増えたため、明智光秀は本拠地である近江・坂本城を目指して勝竜寺城を出ます。この時に使ったのが写真に映っている虎口です。ところが小栗栖の藪で命を落とすことになります。
恵解山古墳 明智光秀本陣跡
大阪と京都の間にある隘路が山崎。現在も新幹線、JR、阪急、名神高速がすぐ近くを走っています。ここを舞台にしたのが秀吉と明智光秀がぶつかった山崎の合戦。
明智光秀が本陣を置いたのが御坊塚と呼ばれる場所で、境野1号墳もしくは恵解山古墳(いげのやまこふん)と言われていましたが、最新の学説では恵解山古墳と言われています。JR東海道線の車窓からよく見える前方後円墳です。
古墳からは火繩銃の玉や、平らに整形した曲輪の跡、堀などが発掘されています。現在は住宅地や工場が建て込んでいますが、当時は山崎が一望できました。光秀側の勝竜寺城のすぐ近くでもあります。
■古墳は城や陣として利用された
戦国時代、古墳は城や陣としてよく利用されていました。忍城攻めで石田三成が本陣を置いたのが丸墓山古墳。大阪の陣では茶臼山古墳が徳川家康、真田信繁双方の陣となりました。御勝山古墳は徳川秀忠の陣となっています。また道明寺の合戦にむけて真田信繁は岡ミサンザイ古墳(仲哀天皇陵)を山城に改造していたようです。
反対に本当の継体天皇陵といわれている今城塚古墳ですが、今城という名前がついているように戦国時代の城と言われていましたが伏見大地震による地滑りの跡ということが発掘調査で判明しています。
そうだ京都、行こう! 嵐山城
そうだ京都、行こう!
嵐山と言えば、まずは電電宮、次は嵐山城でしょう!
香西元長(こうざい もとなが)という戦国武将がいます。出身は讃岐国ですが、京都では細川氏の家臣となり山城国下郡守護代でした。この香西元長が築いたのが嵐山城です。
管領細川政元に仕えていましたが、実子がおらず3人の養子を迎えたため、養子同士の権力争いが発生します。香西元長はこの権力争いのなかで討死しますが、これが応仁の乱の一つの事件になっています。
電電宮のある法輪寺から南に少し行くと、「京都一周トレイル 西山26」という小さな看板があり、ここから細い山道が出ています。途中からはきちんとした登山道になり、トレイルを楽しんでいる人と出会えます。ひたすらこの登山道を行くと嵐山山頂へたどり着き、ここが嵐山城となります。高低差が大きな郭が並んでおり、郭からは渡月橋など嵐山が一望できます。
滝山城
八王子城に登ったあと高尾駅から八王子駅に戻り、次に目指すのが滝山城です。
武田信玄の猛攻をしのいだことで有名な滝山城です。城の中は広大で同じ北条氏の城だった茅ヶ崎城とよく似ており、茅ケ崎城を大きくしたような感じの城です。きれいに整備されていて、おまけに案内板やマップまであります。ふつうの山城だと、城にたどりつくのにGPSがたよりになりますが、滝山城は検索しなくてすみます。
■戦国時代の馬出しが残る
滝山城にはいろいろな郭、屋敷跡、また馬出しなどが各所に残っていて見ごたえがあります。馬出しとは虎口(出入口)の外側に郭を築いたもので角馬出しと丸馬出しがあります。真田信繁の真田丸はこの丸馬出しを進化させたもので、丹波・篠山城には外堀の三方に馬出しが設けられています。滝山城で最後の本丸にたどりつくには大堀切にかけられた曳橋を渡る必要がありましたが、有事の際に橋を落とせるようになっています。
■北条氏照の城となる
滝山城を造ったのは山内上杉氏の重臣で、武蔵国の守護代だった大石定重といわれています。河越夜戦で北条氏に山内上杉氏が破れ、大石定重は北条氏に臣従するようになります。滝山城は北条氏の城となったので北条氏照が大改修を行います。
そこへ攻めてきたのが小田原本城へ向かう武田信玄軍。滝山城では2千の兵で守っていましたが、防御の弱い南側から武田の小山田隊に攻められ三の丸まで攻め込まれてしまいました。少ない人数で守るには、もっと防御力を高める必要があると新たに築城したのが八王子城です。武田勝頼の時代となり、最後に勝頼を裏切ったのが小山田信茂でした。
八王子城
知的生産の技術総会の後は中央線に乗って八王子へ出て宿泊。朝から高尾駅へ出て八王子城に登ってきました。豊臣秀吉の北条攻めで玉砕したのが伊豆の山中城と八王子城で悲惨な歴史の舞台となりました。
八王子城の城主は北条氏照でしたが家臣団とともに小田原城に詰めていました。八王子城内には城代の横地監物吉信、家臣の狩野主善一庵、中山勘解由家範、近藤出羽守綱秀らの将兵と、領内の農民など約3000人が立て籠りました。ここを攻めたのが杉景勝、前田利家、真田昌幸らの部隊1万5千人で堅固な山城でしたが、大軍には勝てず半日で落城してしまいます。
さすがに早朝から山城に登っている人はおらず、本丸から尾根沿いを歩いて詰城まで向かいました。詰城には石垣があり天守閣跡と伝わっていますが、本当かどうかは分かりません。帰り道にはたくさんのハイカーと遭遇。そこらへんの郭を見て回りましたが、八王子城ってハイキングのメッカだったんですね。
安濃・二子城
安濃・連部城
今徳城から少し行った穴倉川沿いに連部(つらべ)城があります。
連部城について三国地志には織田信包(信長の弟)が戸木城攻めのため家所帯刀に築かせたとあります。また勢陽五鈴遺響には秀吉が木造城を攻めるために築かせたと記録されています。
石田三成と同じ五奉行の一人が長束正家で水口岡山城主でした。関ケ原の合戦では三成側でしたので戦のあとに自決しています。この長束正家の陣代に家所帯刀がおり、関ケ原の合戦前の伏見城攻めに加わっています。
安濃には家所城があるので、家所帯刀はもともと安濃の出身かもしれません。いずれにしても久居にある戸木城、木造城は、かなり離れていますので戸木城攻めというのはどうでしょうかね。
連部城には土塁を伴った広い郭があり、よく整備されていて藪もありません。これはありがたいですね。また大きな堀切があります。