甲賀上野城

甲賀上野城

伊賀、甲賀といえば忍者が有名で、忍者ハットリくんの敵役だったケムマキくんが甲賀忍者です。甲賀忍者が記録に初めて登場するのが鈎の陣です。第9代将軍、足利義尚が六角討伐の軍勢を率いて京を出発し、近江の鈎に陣をかまえます。この陣に夜襲をかけたのが甲賀衆で、神出鬼没の動きに甲賀忍者と呼ばれるようになります。

■上野氏
六角氏に味方したのが甲賀の地侍五十三家で甲賀五十三家と呼ばれます。この甲賀衆の一人が上野氏で、この上野氏の居城が甲賀上野城です。山城では珍しく県道4号線に「上野城」という道標がありました。道標に従って山に入り、山道に従って登っていくと城跡につきます。ただ虎口などはけっこう技巧的になっていて戦国時代に改修されたようです。主郭は方形で高い土塁が巡っています。よく遺構が保存されています。

溝谷砦

溝谷砦

東野山城の出城の一つ。以前、東野山城に登った帰りに砦を探したことがあります。あたりをつけて崖を登ったところに堀切らしいものをを見つけ、そこから続いている尾根をずっと登って城の痕跡を探したのですが見つからず、今回はそのリベンジです。

事前にいろいろと情報を調べると堀切らしきものと思ったのが、やっぱり堀切でした。砦があるのは堀切の反対側で尾根の張り出しの先端部に築かれた砦跡でした。ウーン、尾根の先端とは気が付かなかったなあ。尾根筋を堀切で遮断し、三段の削平地を連ねた構造の小さな郭でした。ただ林道で削られた部分があるので、もう少し大きかったかもしれません。

菖蒲谷砦

菖蒲谷砦

天正11年(1583年)、柴田勝家と秀吉が戦った賎ヶ岳合戦は攻城戦でした。秀吉は最前線にあった天神山砦と茶臼山砦を放棄して、前線を下げたため堀秀政が守る東野山城が最前線になります。東野山城の出城として築かれたのが菖蒲谷砦です。菖蒲谷砦から堂木山砦との間には防塁を作って北国街道を封鎖しました。

■菖蒲谷砦
菖蒲谷砦は2つの尾根上に築かれ頂上に主郭があります。北側の尾根の裾野から城を目指しましたが、かなりの急斜面になっています。ヒーハー言いながら何とか木々の間の斜面を登り、ようやく尾根筋へ出ると郭跡がありました。ここが最前線で見張り台だったのでしょう。尾根筋がまた斜面になっていて、ひたすら登っていくと主郭に到達しました。土塁や堀切が明瞭に残っていました。帯郭や虎口もあります。

もう一つの尾根筋を下ろうと思ったら違った尾根を下ってしまい、途中で切れ落ちていました。こりゃダメだと主郭まで戻り、尾根を下っていくと、こちらは見張り台のような先にも削平地がありました。当時のものかは不明ですが、虎口もあるので駐屯地だったかもしれません。さらに下って、ようやく林道に出ました。

天神山砦

天神山砦

JR余呉駅からずっと北へ行ったところに天神山砦があります。天神山砦へは草岡神社の裏側から動物除け柵の入口を通ると遊歩道があるという事前の情報をチェックして向かったのですが、行ってみたら藪の中。ようやく柵の入口を見つけても遊歩道は見つかりません。ひたすら急坂を登るだけで、かってあった遊歩道は山道に変貌していました。何とか苦労して砦の虎口に到達。

天神山砦は天正11年(1583年)に起きた賎ヶ岳合戦で秀吉方が築いた砦です。賎ヶ岳合戦では柴田勝家側も秀吉側も、たくさんの砦を作り、均衡状態になります。天神山砦は最前線の砦として築かれました。最前線なので、けっこう大きな陣城になっていて東西二郭を中心としており、西郭の方が高所にありましたから主郭だったのでしょう。土塁が巡った郭が続き、郭の間は堀切で区切られています。

かなりの土木工事で砦を作りましたが、柴田勝家側の佐久間盛政が天神山砦を俯瞰できる行市山砦に布陣したことから、不利になりました。秀吉は天神山砦と茶臼山砦(遺構はほぼなくなっています)を破棄して、東野山城・堂木山砦・神明山砦まで前線を下げます。

笠上砦、見つけられず

東野山城からの帰り道、Googleマップを見ると笠上砦のマークが!

鉄塔

東野山城の出城がいくつか造られたので、その一つでしょう。林道から山の中に入って、マークの場所を目指しますが、結局は送電線の鉄塔のところをGoogleマップが笠上砦として示していました。「こんなところなの!」と、とりあえず周辺を探訪。けっこう歩き回りましたが城の痕跡はなし、大体、砦なら切岸があるはずですが、なだらかな坂になっているだけです。別の所を指しているのではと林道から反対側に登って、ひたすら尾根道を歩きますが、こちらも城の痕跡はなし。結局、さっき歩いてきた林道に行き当たりました。

Googleマップの山城の位置は、けっこう間違っていることも多いので、その一つですね。Googleマップが間違っている場合はフィードバックができ修正できます。送迎山城なんかも場所が間違っていたので修正したこともあります。笠上砦も調べなおして次のベストシーズンにアタックするしかないですね。

東野山砦

賤ケ岳の合戦で堀秀政が守ったのが東野山砦。秀吉軍の防衛線である連珠の砦よりも、さらに前に出て築かれた山城です。今も土塁や空堀などが見事に残っています。入口は堀底道になっていて高い土塁から攻撃を受けながら進まないと虎口にまでたどりつけない複雑な構造になっています。東野山砦からは余呉湖方面も柴田軍方面もよく見えたでしょう。現在は余呉湖方面しか見えません。東野山砦はもともと京極氏、浅井氏の配下だった東野豊前守一族の居城でしたが、堀秀政が整備しなおしました。

東野山砦

柴田軍にとっては、やっかいな場所に造られた城で、正面突破ができないので、佐久間政盛が行市山を出て、南下し余呉湖をまわりこむ形で中入りをしました。中入りといえば小牧・長久手の戦いで秀吉軍の中入りが失敗しましたが、堀秀政は冷静な判断で家康軍に一矢報いました。その後の小田原攻めの最中、陣中で病没しました。

連珠の砦

ちょっとした土の高まりしかないのですが、ここが連珠の砦跡です。

連珠の砦

賤ヶ岳の戦いで先手をとったのが柴田勝家側。玄蕃尾城、行市山城など次々と高台に拠点をつくり持久戦にかまえる体制を整えます。出遅れたのが秀吉側で防衛線を南に下げ、北国街道の西側の山に神明山砦、堂木山砦を築き、東側の山には東野山城を築きます。この砦の間の平地には塹壕を掘って、掘った土で土塁を築き、柵を設置します。塹壕が数珠のようにつながっていたので連珠の砦と呼ばれました。

三木城攻めでは各砦の間が土塁で連結されていました。あれよりも小規模ですが、賤ヶ岳の戦いの最前線になったところです。ただ、北国街道などが整備させれて、遺構はほぼ無くなりました。

玄蕃尾城

玄蕃尾城

刀根坂の戦いがあった刀根越から、さらに山を登ると玄蕃尾城があります。本能寺の変の後、柴田勝家と秀吉がぶつかる賤ヶ岳の戦いの舞台です。国境に造られた城で、もともとは朝倉氏の山城があったのを柴田勝家の家臣だった佐久間玄蕃允盛政が大きく改造し、勝家の主城にしました。玄蕃が造ったので玄蕃尾城と呼ばれるようになります。

玄蕃尾城は4つの郭で構成されていて、各郭は土橋で連結され、土塁と空堀で多重防御しています。特に主郭には2つの馬出と1つの張出郭が備わっています。めちゃくちゃ技巧的ですね。主郭には天守台もありました。玄蕃尾城の虎口の前に、大きな平坦地があり、兵士の駐屯に使われたのでしょう。

刀根坂の戦い

大河ドラマ「どうする家康」では次回、浅井長政による裏切りで金ヶ崎の退き口となりそうですね。浅井・朝倉だけでなく石山本願寺とも対峙しないといけなくなる信長にとって大変な時期になります。やがて信長は各個撃破に乗り出し、小谷城攻めが始まります。小谷城の目の前にある虎御前山に付城を築くと、後詰で出てきたのが朝倉義景で、朝倉軍は小谷山の山頂にある大嶽城に布陣します。信長は嵐のなか、自ら馬廻り衆を率いて大嶽城に攻め上り、落城させます。

刀根坂

降伏した城兵をそのまま朝倉義景の陣へ送り届けたところ、信長の攻勢を支え切れないと判断し、越前へ引き上げを始めます。これを織田軍が追撃します。余呉湖の北に柳ヶ瀬という集落があり、ここから福井へ向かう刀根越がありました。久々坂とも呼ばれています。刀根坂を超えて、疋田にでると朝倉側の疋壇城があるので、この城を目指します。この刀根坂で激戦が行われ朝倉軍は惨敗します。世にいう刀根坂の戦いで、結局は一乗谷まで攻められ朝倉家は滅亡します。この戦いで朝倉に身をよせていた美濃の斎藤龍興も討死したといわれています。

佐和山城

物生山城から尾根道をひたすら歩いて佐和山城へ。いくつもの尾根を越えるのでけっこうアップダウンがあります。

佐和山城
佐和山城

佐和山城は北国街道と東山道(中山道)が交差するところで昔から交通の要所でした。琵琶湖を使った水運の拠点でもあります。鎌倉時代は近江守護の佐々木氏が佐和山に砦を築き、六角氏が引継ぎ、やがて六角氏と敵対した浅井氏の城となります。浅井方の磯野員吉が城主となっていた時に織田信長が物生山城などの付城を造って戦い開城させました。織田方の丹羽長秀が新たな城主となります。本能寺の変の後は堀秀政、堀尾吉晴が入り、最後は石田三成の城となります。三成は大改修を行い「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」と言われることになります。

関ケ原の合戦後は井伊直政が入りましたが、新たに彦根城を造って、そちらに移りました。佐和山城は廃城となり郭跡や石垣に一部だけが残っています。主郭から前回、行けなかった法華丸に出て、彦根の街に降りてきました。