四支援機関というのは東海地域にある愛知県、岐阜県、三重県、名古屋市にある中小企業支援センターのこと。道州制をふまえて「あいち産業振興機構」のプロジェクトマネージャの音頭でスタートした情報交換会です。2006年にスタートしました。各支援機関のプロジェクトマネージャやマネージャが参加しています。
今回、幹事が三重県でしたので塩浜にあるAMIC(高度部材イノベーションセンター)を会場にして開催。
セミナーとして桑名にあるアサプリ・ホールディングの松岡社長にお話しいただきました。逆風下の印刷業界の中でいかに生き残っていくか、すさまじい話でした。数管理などすごかったですね。パートのおばちゃんまで会社がどうなっているか把握できるシステムになっています。もっとも難しい話をして理解できないのでグループ企業内での取引増やすために家庭内マージャンを事例にするなど、よく考えられています。
船場総研 伊賀上野散策
船場勉強会という大阪を中心とした中小企業診断士の勉強会があります。もともとはNifty-ServeのFlic(資格フォーラム)にあったオフライン勉強会。ここのOB組織が船場総研です。試験合格後も勉強会へ出入りして、受験生の邪魔だということで邪魔しないように組織されたようです。(笑)
船場総研では年に何回かビジネススクールのような勉強会を開催したり、商店街視察をしたりしているのですが、最近は蔵巡りなど遊びモードが中心になっています。
一度は三重でやろうということで昨日は伊賀上野散策を行いました。伊賀上野は仕事でよく行っているので新鮮味はないですね。(笑)
お昼は伊賀上野名物の田楽を食べに、田楽座わかやへ。炭焼きの田楽で有名なお店で、平日は少し待てば入れますが、さすがに祝日は超満員。20分ほど待って、おいしくいただきました。昼食の後は、鍵屋の辻(ここは知られていないのか観光客は一人だけ)~崇廣堂(藩校)~伊賀上野城~忍者屋敷を巡ってきました。伊賀上野城や忍者屋敷は観光客が多かったですね。
夕方になったので上野市駅から少し歩いたところにある養老の滝へ。伊賀上野で居酒屋ってあまり見たことなかったので事前に調べ、伊賀の人に聞いたのですが上野市駅周辺に居酒屋は皆無。少し離れたところにポツン、ポツンとあるぐらい。地元の人は居酒屋はロードサイト店に送迎付きで行くそうです。帰り際にちょっと一杯行こか、はいいけど、行く店がないのは困るなあ。
平安京の四神 陰陽師の世界
昨日は野村萬斎主演の映画「陰陽師」をやっていました。舞台はもちろん平安京。
平安京を作る時に考えられたのが都を守る四神「玄武(山)・朱雀(池沼)・青龍(川)・白虎(大道)」です。従来から玄武は船岡山、青龍が鴨川、白虎は山陽道、朱雀は巨椋池と言われています。ちょうど歴史地理学の本を読んでいると、この四神について面白いことが書いてありました。
朱雀(船岡山)からまっすぐ内裏を通って朱雀大路が通っていますが、ここから等間隔で西堀川と東堀川があります。この西堀川と東堀川の間隔をそのまま東に伸ばすと鴨川になります。地図や等高線を調べると、どうも西側の等距離にも道と川があったことが判明。
これが木嶋大路で一番北に蚕ノ社があります。現在、この道はありませんが大路と御室川が流れていたようです。それぞれの間隔がちょうど588丈。1丈は今の約3メートルです。当時1里は180丈でした。これを10倍すると1800丈。
船岡山
内裏
木嶋大路 西堀川 東堀川 鴨川
588丈--+-588丈-+--588丈
1800丈-18丈×2=588丈×3 となり18丈は約60メートルですので鴨川の幅と木嶋大路の広さだったようです。
つまり西の白虎は山陽道などではなく都に平行して南北に走っていた今は失われてしまった木嶋大路だはないかという説です。また朱雀も巨椋池ではなく、羅城門からちょうど10里行ったところに横大路朱雀という字名が残っているそうで、ここに人工池が作られていたのではという説です。
もし、そうだとするとかなり緻密に平安京を作っていたんですね。まさに計算の陰陽師の世界です。
2分間隔で電車が来る東山線
名古屋市新事業支援センターへ行くのに近鉄名古屋駅で降りて、地下鉄・桜通線に乗り換えています。今日は朝から名古屋大学の研究室へ行く用事があったので近鉄を降りて、桜通線への連絡口ではなく東山線へ。
朝の地下鉄東山線・名古屋駅って行ったことがなかったのですが、めちゃくちゃ混雑しています。改札の前に行列ができているのにまずビックリ。改札の先がつまっていて、行列はずっと続きホームに降りる階段もずっと行列です。ただし地下鉄は2分間隔で走っているので、そう待たずにホームに降りることができました。
この2分間隔は東山線全区間で、この短さは日本一なんだそうです。東京のメトロ丸ノ内線は1分50秒間隔ですが、これは一部区間になります。東山線って、めちゃくちゃすごいダイヤなんですね。あれほどの行列でしたが車内は御堂筋線のようにギュウギュウではなく、少しゆったりしています。すぐに電車が来ることもあって、一杯になりそうになると待つ乗客が多いことが影響しているようです。
東山線の本山駅で乗りかえて、環状線のように1周している名城線へ。一駅乗ると名古屋大学という駅です。ここの3号出口は名古屋大学キャンパスに直結。濡れずに大学構内に入れます。
駅から大学まで学生街が広がるというのが定番なんですが、3番出口にそんな風情はありませんねえ。
津城下図
三重県産業支援センターで昼休みに中日新聞を見ていると津城下図が発売されたという記事を発見。発売されたのは寛永期(17世紀)、享保期(18世紀)、嘉永期(19世紀)の3枚です。享保期については去年も発売され、たまたま新聞で見つけたのですが、10日ほど経って買いに行ったら早々に売り切れていました。今回は発売開始3日後の金曜に少し時間ができたので津市役所へ出かけて買うことができました。嘉永期は1000部、寛永期、享保期は500部の発売で、金曜日時点で既にだいぶ減っていました。3枚ともゲットできたのはラッキー。
道は庭岩禅寺、八百亀商店(八百屋さん)、佛眼寺、天理教津大教会の横を通って百五銀行本店の裏側で岩田川にぶつかります。古地図を見ると同じ位置に道があり庭岩禅寺や佛眼寺の名前が見えます。何とと言うことはない道なんですが江戸時代から、ずっと続いている道なんですね。
現在はありませんが岩田川の中には島があり、位置的には中部電力・津支店あたりのようです。
古地図を眺めて歩くとブラタモリ気分が味わえます。あの番組、復活しないかなあ。
ボン・ビーバン10月11月号に執筆しています
全国信用組合中央協会が発行している情報誌「Bon Vivant」(ボン・ビバーン)10月・11月号に執筆しています。全国の信用組合の店頭や、また渉外係が配布されていますので機会がありましたら、ご覧ください。
今回のテーマは「更新しないホームページはつぶれた会社と思われる」で、ホームページはほったらかしにせず、季節やタイミングにあわせて更新しなければなりません。
ホームページに載せるコンテンツがない、何を載せたらよいか分からないという話を時たま聞きますが、そういった時はお客さんからよくある問い合わせをQ&A方式で記載しましょう。いわゆるFAQです。FAQの内容を充実させると必然的にページ数が増え、キーワードからの流入が増えます。
堂島 古河ビル
堂島へ行く用事があったので懐かしい古河ビルへ寄ってきました。サントリー本社のすぐ近くにあります。
新卒で入った会社が株式会社SRA。当時はソフトウェア・リサーチ・アソシエィツという長たらしい名前でした。西日本営業所があったのが、堂島グランドビル。1階には第一勧銀と本屋・オーム社が入っていて銀行や本屋にすぐ行けて便利でした。特にオーム社は仕事で使うコンピュータ系の本が揃っていてよかったですね。地下には紅茶専門の喫茶ムジカがありました。
当時は阪急京都線・上新庄に住んでいたので阪急梅田駅で降り、地下街を20分ほど歩いて堂島グランドビルまで雨に濡れずに行くことができました。梅田のだっだ広い地下街は初めて行ったら絶対に迷いますね。あまりにすごいので「梅田地下オデッセイ」(堀晃)というSF小説までありました。
堂島グランドビルの5階か6階に会社があったのですが、手狭だったこともあり、すぐ近くの古河ビルにもオフィスを借りていました。プロジェクトによって移動したのですが古河ビルにいることが多かったですね。古河ビルは地下街と直結しておらず、サントリー本社近くに地下街への降り口があり、雨が降っていたら古河ビルの入口まで走らないといけませんでした。
プロジェクトが佳境に入ると深夜まで仕事をすることもしばしば。そのまま古河ビルに泊まり込んでしました。冬で寒いからリストを体に巻きつけて寝たこともありましたが、リストはゴワゴワするだけで、暖かくないことを学習しましたね。古河ビルの地下には床屋、郵便局、歯医者があり、こっちも便利なビルでした。
池の谷古墳(池の谷砦)
津の実家から国道23号線を伊勢方面(津)へ行くと垂水という場所があります。
垂水は津の中心市街を通らずに抜けることができるバイパス道路と合流するところで、いつも混んでいます。ここから南が丘方面に丘を登る道路があり、丘を登ったところにマルヤス南が丘店新鮮館というスーパーがあります。スーパーの後ろが高台になっていて今は住宅地になっていますが、ここにあったのが垂水城(北鷺城)。今は何も残っていません。
垂水城から少し行ったところに池の谷古墳という前方後円墳が住宅地のど真ん中にあるんですが、ここも高台の上にあります。古墳は見晴らしのよい所に作られましたので戦国時代はよく砦として使われました。この古墳が池の谷砦跡です。
垂水城は津近辺を支配していた長野氏の城で、南側の北畠と対立していました。この垂水城が最前線の城になります。池の谷砦は垂水城の出城か、北畠側が垂水城を攻めるために作った付城のようです。前方後円墳の円墳と方墳の間に堀切があると現地の案内板に書かれていましたが、ちょっと窪んでいるぐらいで、よく分かりませんね。
ただ眺めはめちゃくちゃよく、平清盛など伊勢平氏がよく利用していた安濃津の港がすぐ下に見えますし、伊勢神宮への街道も上から見下ろせます。南側を見ると伊勢中川あたりが見渡せ、先日、行った北畠の天花寺城もバッチリ見えますね。織田信長の伊勢攻めでは長野氏は信長側についてので、まさに垂水が両軍の最前線になりました。
三重県は近畿か中部か
「三重県は西日本か東日本か」で悩んでいる知り合いがいるので、同じようなテーマで「三重県は近畿か中部か?」を考えましょう。
地理の教科書で三重県は近畿地方と習いましたが、経済産業省の管轄では中部地方になっています。中部と言っても北陸は関西との結びつきが大きいので東海地域(愛知、岐阜、三重)という場合が多いですね。
三重県は伊賀・伊勢・志摩・東紀州に分かれていて、歴史的に言うと伊賀、東紀州は近畿で伊勢、志摩は中部です。別の言い方をすると鈴鹿の関の西側が関西ですので伊賀、東紀州は関西。伊勢、志摩は関東です。
不破の関(関ヶ原)、鈴鹿の関より東にある名古屋はれっきとした関東地域。壬申の乱で大海人皇子が不破の関で近江軍と戦いましたが、ここが東西の分岐点。戦国時代には関ヶ原の合戦も起きました。
結論、「三重県は近畿でもあり中部でもあります」。
ですので三重県出身者としては近畿&中部で仕事をしているのは、至極まっとうです。ちょっと移動距離が長いのですが。(笑)
現代ビジネスマンのための学問のすすめ
昨日、大阪産業創造館で知的生産の技術研究会・関西セミナーを開催。
講師は作家 奥野 宣之氏で、新作である『現代語訳・学問のすすめ』を題材に話をしてもらいました。
「学問のすすめ」は慶応大学を作った福沢諭吉が明治5年に書いた本ですが140年前に書いた本とは思えず、現在と同じような問題が書かれていて140年間、あんまり変わらなかったんですね。
福沢諭吉の「学問のすすめ」が発売されたのは1872年(明治5年)。江戸から明治になったばかりで当時の人口は3500万人ほど、「学問のすすめ」は22万部売れました。160人に1人が読んだ大ベストセラーでした。
■赤穂浪士批判
「学問のすすめ」という題名ながら学問よりも嫁・姑問題やら上司とのつきあい方など多彩な話題が書かれています。出版当時、問題になってたたかれたのが赤穂浪士の批判。吉良邸への討ち入りは私刑であって法を破っている。幕府の片手落ち裁判を問題とするのなら最後まで裁判で争うべきで、私刑でやってしまったら国が成り立たないという論調です。おかしいものはおかしいと批判ですが、福沢諭吉は世間からはだいぶたたかれたようです。
■現在と変わらない世相
140年も前に書かれた内容とは思えない部分がたくさん出てきます。「政府とは優秀な人物をたくさん集めて、一人の愚か者がやるようなことをする所」と定義されています。個々は東大出など優秀ですが集団化すると愚者となります。現在の膨大な国の借金を積み上げてきた政府をみているとまったくその通り。
また「愚民の上には圧政があれば、良民の上には善政がある」という言葉があり、政府批判をしても結局は「この国民あっての、この政治」。つまるところ国民が悪いと指摘しています。
「いまの学者はインプットばかりでアウトプットできないものが多い」という言葉は昔も今も変わりませんね。
また心事(自己評価)と働き(相対評価)のバランスが大切とも書いてあります。例えば自己評価が肥大になると「時代が悪い」と自分のせいではなく世の中のせいにし始めます。
生活保護の問題についても書かれていて五升の米を与えると三升を酒に変えてしまう者がいると指摘があり、現在の不正受給問題ですねえ。
会場に本を持ち込んでいただきましたが、早々と完売
セミナーの様子です。
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