ワン・ストップ・サービス・ディ

one2010101.jpgワン・ストップ・サービス・ディとは各専門家が1ケ所に集まり、事業者のいろいろな相談に対応する日で、リーマンショックによる不況が始まった昨年度から始まりました。各都道府県で行われています。

今日は三重県産業支援センターを会場にワン・ストップ・サービス・ディを開催。日本政策金融公庫、保証協会の金融相談から弁理士による特許相談、弁護士による法律相談や下請相談、社労士による労務相談など、事業者にとってはなかなか重宝します。私は経営とIT相談を担当しておりました。

one201002.jpgただ今回は急に開催が決まったこともあり、あまり周知できなかった模様で、相談者よりも相談対応者の方が多かったですね。支援センターで開催ということもあり相談がない時は机で仕事しておりました。11月は11月25日(木)に四日市商工会議所で行われます。(10:00-16:00)

津から大阪へ帰ろうと近鉄電車に乗ろうとすると名古屋線で踏切事故があり10分の遅延。いつもより早い電車に乗れました。ラッキーと思ったら、接続待ちなどで延々と待ったり、遅れた影響で乗り継ぎ電車が発車済みだったり大阪に着いたらいつもより20分遅くなりました。疲れた!

お江のノボリ

go201010.jpg津城近くの丸の内商店街や四天王寺にずらっとお江のノボリが並んでいました。来年の大河ドラマが「お江」なので、津市では「ゴーちゃん」というキャラクターを作って地域起こしに取り組んでいます。

お江は浅井長政とお知の方の子供で近江の小谷城で生まれましたが、生まれた年に織田信長によって小谷城は落城。助けられたお市の方、姉の淀君と供に信長の弟(信包)のいた津に落ち着きました。織田信包は信長のお母さんの土田御前をその前から引き取っています。土田御前はそのまま津でなくなり、お墓は四天王寺にあります。

お江が落ち着いたのは津の北部にある伊勢上野城という高台にある城で、目の前には伊勢湾がひろがっています。ここに7歳までいて、その後、織田信包が現在の津城に移ったので、津城に9歳までいました。そしてお市の方が柴田勝家と再婚したので福井の北庄城に移ります。

お江は幼少期、ずっと津にいて伊勢湾を眺めていたはずなんですが、NHKの脚本家はたぶん琵琶湖を眺めるようなシーンにしてしまうんでしょうね。

生田神社は夜閉まる

IKUTA20100621.jpg三ノ宮での仕事が終わり、生田神社の裏側に広がる生田の森を通って帰ろうと、境内に入り生田の森から拝殿に進むと拝殿入口の門にシャッターが下りていました。

「あらあら、これじゃ出られないじゃないか」と来た道を戻ると警備員さんが歩いてきて。「生田の森の入口は閉めましたので拝殿の方から出てください。」とのこと。門の一部だけが空いているそうです。拝殿でお参りをして空いていた空間から出ると、そこも閉められました。

生田神社は夜になると閉めるんですね。神社なんてずっと空いているいるものとばかり思いました。これじゃ丑三つ参りはできませんなあ(笑)

淀君が住んでいなかった淀城へ

yodo2010101.jpg京阪電車の淀駅周辺で高架工事が行われており京都から大阪へ向う側は高架になっています。電車の窓から京都競馬場が見えますが反対側に見えるのが淀城。高架から一望できるようになると、かなり広いことが分かりました。気になっていたので、大学の講義の後に寄ってきました。

地下鉄東西線で六地蔵駅へ出て、宇治川沿いに走る京阪宇治線で中書島へ。ここは坂本竜馬とお龍で有名な伏見の船宿・寺田屋の最寄り駅なのでホームには竜馬の写真などがそこかしこに貼られていました。中書島で乗り換えて一駅目の淀駅へ。

yodo2010102.jpg淀駅のすぐ近くというか、すぐ隣にある淀城へ行ってきました。伏見の船宿ができるように水運の地で桂川、宇治川、木津川が合流し、淀川となる地です。徳川秀忠が廃城となった伏見城のかわりに建てた城で天主台もしっかり残っています。

淀君の名前の由来となった淀城は、この淀城のすぐ近くにあった淀古城で、こちらの遺構は残っていません。山﨑の合戦の舞台にもなりました。高架の淀駅から見ると村田製作所の本社がすぐ近くに見えました。本社近くに勝竜寺城があり、ここが山﨑の合戦で明智光秀の本城になったところですので、淀城あたりも山﨑の合戦の舞台になったんですね。幕末にも幕府軍瓦解の舞台になったところです。

梅棹忠夫先生追悼特集号

tiken201010.jpg知的生産の技術研究会の機関紙「知研フォーラム」が届きました。

今回の310号は、7月に亡くなられた梅棹忠夫先生追悼特集号。表紙の写真は若い梅棹先生と知研を立ち上げられた八木会長の写真です。

大宅荘一塾のメンバーだった八木会長が「知的生産の技術」(岩波新書)に出合い、知的生産の技術研究会を立ち上げましたが、梅棹先生には了解はとっていませんでした。

ところが岩波が出している雑誌「図書」に、知的生産の技術がよく売れて、その影響で京大カードが発売され、東京では熱心な人が知的生産の技術研究会を開いていて社会的な変化が起きていると書かれていて、あわてて梅棹先生の了解を得に京都へ向かったという話は以前、八木会長から聞いていたのですが、その前後の逸話も載っておりました。

知研関西は地元ということもあり、梅棹先生と接触する機会が多かったのですが、そこらへんの逸話は「知研関西と梅棹先生」として一文を掲載してもらいました。

知研関西と梅棹先生

知研関西へ梅棹先生に出席いただいたのは知研関西10周年記念セミナー(1997年)が最初。いらい、体調をくずされるまで知研関西と日本ローマ字会が共済で開催した「梅棹先生を囲んで語り合う会」で定期的にお会いしておりました。梅棹先生はエスペランティストであり、日本語の国際化にはローマ字運動が必要だと、晩年はローマ字運動にとりくんでおられました。

セミナー後の雑談になると百科事典のようにいろいろな話題がとびだし、学術的な話題には「へ~え」と感心するお話ばかりでした。とくに言語や探検の話が多かったですね。

●中国の周りをアルタイ語が取り囲んでいる
日本語はアルタイ語とふかい関係にあり、アルタイ語を使用しているのはトルコのチュルク語、モンゴル語、満州語、朝鮮語、そして日本語。モンゴル語の文法は日本語と同じ語順になっている場合がおおく単語を置きかえて日本語の語順でいえば通じるそうです。

この言語分布をみると、ぐるっと中国を取り囲んでアルタイ語族が並ぶかたちになります。中国語の言語体系は日本語と全然ちがい、同じ音の漢字がありますが四声で全部、区別しています。広東語にはこの声調が9つもあります。日本にも「はし」のような抑揚が変わる例がありますが、基本的に声調はありません。反対に日本語には五段活用がありますが中国語にはありません。中国語とよく似ているのはタイ語で声調が5つあります。チベットも同じで、つまりアジアでは中国・チベット・タイをアルタイ語族が取り囲んでいるような言語分布になっています。

●漢字を使っている中国が隣国だった
問題は中国が四大文明の一つの強国であったこと。日本は7世紀から9世紀にかけて漢字を取りいれましたが日本語は50音だけの言語で正確な中国語ではなく、なまった音を導入しました。これが「音読み」になっています。また意味をあらわす「訓読み」の2つの読み方を併用しました。

梅棹先生によれば漢字を借用した国の中で、こんなことをしたのは日本だけ。ベトナムや韓国でも漢字を導入しましたが読みはひとつだけです。これで千年間、日本はしんどいことになる国民的悲劇だとよくおっしゃっていました。日本では国語を学習するのに必要な時間が10倍にはねあがり、自分たちの言語を学ぶのに数年間を要する信じられない事態となってます。

日本は大国中国の隣に位置したがゆえに、本質的に構造の異なる漢字を導入し、とんでもない運命にひきずりこまれました。隣の韓国はチベットから伝わったモンゴル(元)のパスパ文字を使って、ハングルを14世紀、15世紀頃に成立させましたので、この事例に学ぶべきだともよくおっしゃていました。

●索引がない学術書は読む価値がない
梅棹先生がよくおしゃっていたのが索引の重要性。日本にも情報の蓄積はありますが、現在の日本語のままでは、必要な情報がタイムリーに引きだせません。自国語が正確に読んだり、書いたりできません。梅棹忠夫全集の索引を作るのにも1年もかかったそうです。欧米なら一瞬で出来あがってしまう索引が日本では作れません。まず単語の読みかたがわかりません。特に固有名刺は絶望的で、本人に確認しなければ読みかたがわからないような名前は、他の国にはありません。アメリカでは索引のないような本は、読む価値もないとされますが日本では学術書にさえ索引のないものが多くあります。

日本の文明を維持していくうえで、現在の言語体系では21世紀が乗りきれません。もっと表音化させていかないといけません。特に目を悪くしてからはラジオのニュースを聞くことが多く、同じカガクでは科学と化学の区別がつきません。そこで日常会話では「バケガク」と言って区別していますが、そういうことをやって表音化が進めるべきとおっしゃっていました。中国では四声があるので、同音異義は発生しませんが、日本では同音異義ばかり、聞いて分かる言語にしていきたいという考えです。

パソコンで入力する時に多くの人がローマ字仮名変換していますので、ローマ字を入力した時点でとめてしまえば、同音異義語ばかりとなるので、工夫して「バケガク」のように表音文字となり、留学生や日本に興味のある人にとって学びやすい言語、つまり国際化できるとよくおっしゃっておられました。

■「知的生産の技術」発刊30周年記念会
1999年7月「知的生産の技術」発刊30周年記念会を大阪の千里で開催。本を出版後、梅棹先生は海外にでかけていて日本でベストセラーになっていると岩波書店からの連絡は中東で受け取ったそうです。この会で「フィールドワークの先駆者はだれですか?」という質問に梅棹先生が答えられたのが鳥居龍蔵という名前でした。

後で本屋へ行くと、鳥居龍蔵伝がありさっそく買って読みました。鳥居龍蔵が生まれたのは明治3年。小学校を中退し、学歴はありませんが東京帝国大学の人類学教室の坪井博士に師事、やがて標本の臨時雇いに、えんがあって25歳で遼東半島へフィールドワークに派遣されます。これが皮切りでした。やがて結婚し、子供がうまれても、今度は家族をつれて蒙古へフィールドワークへ。当時は馬賊などが暗躍していた時代でたいへんでしたが、赤ん坊をつれた奥さんを伴っていたので相手も警戒心をとき、これがフィールドワークに効果的でした。東アジアを中心に旅行自体が大変な時代にいろいろなところへ出かけます。

当時の学者は机上で書物から論文を書く人が多く、実際に現場を出かけて論文を書く鳥居龍蔵の態度はかなり異質でした。やがて人類学教室の主任教授になりますが、内部的なゴタゴタにいやけがさし、辞職願を出すことも、この時に解剖学の小金井博士という人が登場するのですが、この方、星新一のおじいさんだったんですね。波乱万丈の人生でしたが、その名前と業績は日本よりも海外で著名な方でした。お話を聞いてから、メモした用語などをもとに後でたくさんのことを学ばせていただきました。

●印象的なお話を2つ
梅棹先生のもとへ、大学から入試問題に文章を使ってもよいかと問い合わせがありました。入試問題を確認すると梅棹先生の平易な文章にいろいろな漢字をいれてわざと難しくしてありました。大学に連絡すると、そのままの文章だと試験問題にならないと言われ、最終的に断ったそうです。私の文章は大学の問題にもならないくらいわかりやすいんだと明るく話されていました。

もうひとつ印象的なお話は読書の話。いろいろな学術書を読まれますが、目的は誰かの本に書いてあることと同じことをやってもオリジナリティーがなくなるので、そのための確認作業のために本を読まれるそうです。インターネットで調べた文章を切り貼りして卒論を出すような昨今の学生にぜひ聞かせたい言葉でした。

梅棹先生のおかげで本当にいろいろな刺激を受けました。ご冥福をお祈りします。

なんでも相談会(松阪商工会議所)

松阪商工会議所
松阪牛で有名な松阪へ。
松阪は和田金や三松などの高級松阪肉を食べさせるお店で有名ですが、庶民が行くところではありません。庶民が行くのは駅裏に拡がる焼肉屋街。炭火などでホルモンなどが食べられます。たらふく食べて飲んで一人4000円ぐらいなので、けっこうリーズナブル。
昼間に焼肉屋街を通っても、どこも閉まっています。そのまま歩いて松阪商工会議所へ。今日は「なんでも相談会」。企業者ではなく一般を対象にしたもので税務、不動産から登記や介護などいろいろな相談がワンストップでできます。
松阪商工会議所
私は「新規開業・経営」を担当。隣は日本政策金融公庫(国民生活金融)でした。今日は事業者が少なく、ブースは閑古鳥。暇ですなあ、と言って無料のコーヒーを飲んだりしてノンビリしていたんですが、後半になって、なかなか面白い創業相談が入り1時間以上相談にのっておりました。

AllAbout顔写真リニューアル

allabou201010.jpg10月1日、2010年度後半戦のスタートです。

さてAllAbout全体も10/1にあわせリニューアル。「企業のIT活用」も変更になりました。前のサイトに書きためたガイド記事も新しいサイトへ移されました。これで導線が少しよくなりましたね。

大きく変わったのは顔写真。以前の写真は7年ぐらい前に恵比寿駅から少し歩いたところにあったAllAboutが最初の拠点にしたビルへ行った時に、当時の担当編集者が「水谷さん、せっかくなのでサイトに載せる写真を撮りましょう」と言って撮ってもらったものです。

リニューアルにあわせ顔写真も最新にしてくださいということで、こないだスタジオへ行って撮った写真に変更。ウーン、やっぱり歳とったなあ。

ひらおか薪能「頼政」

takigi201009.jpg近くにある河内一宮・枚岡神社へ

観阿弥は伊賀上野出身ですが、観阿弥の母親が東大阪の出身でどうも楠木正成の姉妹だったようですね。そんな縁もあり、枚岡神社で毎年、薪能が開催されています。

日暮れになり薪に火がいれられます、境内にはロウソクがともされ、なかなか幻想的。

まず解説があったのですが、薪能というのは興福寺で行われいる能が薪能で、各地の神社でやっているのはタキギではなくマキを燃やしている亜流という話で会場を沸かしていました。

まずは狂言で柿山伏。これは分かりやすい。続いて能「頼政」。源氏の棟梁だった源三位源頼政がシテ(つまり幽霊)で出てくる話です。主題は宇治・平等院にある扇の芝。後半がなかなか躍動的でおもしろかたですね。

先日、平等院に行きましたが入口近くに扇の芝という三角形の小さな庭がありました。ふつうの観光コースからはずれているので観光客が一人もいません。ここが以仁王の令旨を奉じ、平家打倒を掲げた源頼政が宇治の決戦で敗れ自刃したところです。あの扇の芝が主題の能があるんですねえ。

粥見へ

kayumi201001.jpg松阪駅で降り、飯南町行きの三重交通バスに。

朝の時間帯ですが乗っているのはわずか3人。しかも他の2人はすぐ降りてしまい、ずっと乗っていたのは私一人だけ。こんなんで路線維持できるんですかねえ。

バスは松阪市街を走り、やがて田園地帯へ、20分ほど走ると大河内に着きます。北畠氏の大河内城があったところで織田信長の伊勢侵攻の舞台になったところです。大河内を過ぎ、大石というところを過ぎると、ずっと櫛田川沿いをバスは走ります。

kayumi201002.jpg櫛田川は峡谷になっていて、なかなかの眺め。やがて川沿いに茶畑が拡がり始めます。三重県は静岡、京都に続く全国3番目の茶どころですが、飯南はこのお茶で有名です。さて粥見神社前でバスを下車。けっこう古い神社で、北畠親房も参拝したとか。なかなか雰囲気のある神社でした。

さて楽天市場へ出たばかりのショップさんへ。朝から夕方までIT相談でした。

津も暑い!

iwata.jpg津へ移動する時は上六(上本町六丁目)から6:33発のアーバンライナーに乗っていますが、こんな朝早い車両には誰も乗っていません。次の鶴橋で2、3人乗りこんで、そのまま大和八木へ。

大和八木で今日は珍しく10名ほどが乗り込んできました。次の名張でもまあまあ乗りこんで、珍しく乗客が多い日でした。といっても20名ほどですので、ゆったりしたものです。

アーバンライナーの中は冷房がきいているので快適ですが、津で降りると朝からムッとしています。湿気が多いのがなんとも。明日は中秋の名月だというのに、この陽気では盛夏の名月になりそうです。

帰りに岩田川沿いを歩きましたが、全然、涼しくなかったです。写真の塔は中部電力三重支社。このあたりで南北朝の戦い「岩田川の戦い」が行われました。南北朝の和解で、双方から順番に天皇になるという約束がありましたが、これが反故になり南朝方の北畠満雅が多気から出陣し、幕府軍と岩田川で戦い戦死します。