いまだに謎が多い古代山城

「古代山城へのいざない(海島社)」を読んでいるんですが、作者はTOTO滋賀工場長(現在は退任)で、趣味からほとんどの古代山城にも登っていてルポがついています。すごい人がいるものですなあ。

白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れたことから日本への侵攻が怖れられました。

■朝鮮式山城
そこで北部九州~瀬戸内に山城が造られます。大部分は石垣や版築土塁しか残っていませんが、なかには周囲8kmに及ぶものもあります。亡命百済人の指導で朝鮮様式に築かれたので朝鮮式山城とも言われています。広大な城域をどれぐらいの兵で守ったのかなど、よく分かっていません。戦国時代の山城はもっとコンパクトで少ない人数で守れる形になっています。

鬼ノ城
鬼ノ城

岡山の総社市にある鬼ノ城は山の八合目から九合目にかけて、城壁が2.8kmにわたって続いています。鬼ノ城は発掘調査されて復元されていますが、ほとんどの古代山城はよく分かっておらず、記録にありながら今も見つかっていない城もあります。大阪に造られた高安城も記録だけで、よく分かっていませんでしたが1978年(昭和53年)に「高安城を探る会」が山中で礎石建物跡を発見して、これが古代倉庫跡だと分かりました。

大宰府を防衛するために日本にはないと言われていた羅城(都市を取り巻く城壁)があったのではないかとの仮説から前畑遺跡で土塁が見つかったのは2015年(平成27年)と、つい最近です。

扇の芝 源頼政

扇の芝
扇の芝
  • 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」を見ているのですが以仁王の挙兵があっという間に終わってしまいました。なんか5分ぐらいでしたね(笑)オープニングに尼将軍(北条政子)の演説シーンが出てくるので「承久の乱」までは確実に放映するのでしょうからスピードアップするしかなさそうです。頼朝の娘も生まれていたし(笑)
  • 以仁王に加勢したのが源三位・源頼政です。源頼政といえば有名なのが鵺(ぬえ)と呼ばれる怪物退治です。御所の鬼門から現れた鵺を弓で倒しました。

    平治の乱では紆余曲折があり最終的には平清盛方につき、平氏政権のなかで源氏の長老となりました。平氏打倒を目指す以仁王の挙兵に参加しますが、準備中に事が露見してしまいます。宇治で戦いとなり源頼政は以仁王を逃すために平等院に籠って抵抗。77歳で自刃しますが、その場所が平等院の入口近くにある「扇の芝」になります。扇形になっています。

嘉吉の乱

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が始まりましたが殺伐とした武士政権の誕生です。先日の鎌倉殿サミット2022で井上章一先生が鎌倉幕府は広域指定暴力団・源組と言ってましたが、言い得て妙ですね。室町時代にも殺伐とした事件が発生しました。

裁判
裁判

■嘉吉の乱(室町将軍暗殺事件)

加害者:播磨、備前、美作の守護であった赤松満祐
被害者:室町幕府6代将軍 足利義教

事件のあらまし:祝勝の宴として将軍を赤松邸に招待。猿楽観賞の途中に障子が開け放たれるや甲冑を着た武者数十人が宴の座敷に乱入し足利義教を斬殺。

巻き添え:縁に招かれていた守護大名の大内持世、京極高数、近習の山名熙貴が死去

犯行の動機:クジ選びで将軍となった足利義教だが、独裁的で武家だけでなく公家にも粛清が行われて万人恐怖と恐れられた。次は自分がやられる番だと思った赤松満祐が犯行に至る

2月30日が存在する?

出雲国風土記
出雲国風土記

2月30日って、あると思いますか?

太陽暦として世界各国で用いられているのがグレゴリオ暦ですが、うるう年の時だけ2月29日があります。ところが太陰太陽暦では2月30日が存在しました。

全国で60ほど作られたという風土記ですが、ほぼ完本として残っているのは出雲国風土記です。誰がいつ作ったかも書かれていて書いたのは秋鹿郡の人である神宅臣金太理という人物。

書かれたのが天平5年(733年)2月30日です。実はこの日付が問題となって偽書説まで出ましたが、正倉院から2月30日付の文章が発見され、奈良時代に2月30日があることが分かりました。

京都からおくる日本史研究の最前線

タイトルにひかれてGaccoで受講しています。Gaccoというのは日本語版Moocで、Moocというのは大学などの講座をオンラインで無料受講できるシステムです。

Gacco
Gacco

「京都からおくる日本史研究の最前線」は立命館大学が提供しているプログラムで乙巳の変―大化改新―から始まって満州国までの講義でした。古代や戦国時代の話が目当てでしたが、4週目は近代で、しかも教科書に登場しない事件などが取り上げられていて、なかなか面白かったですね。満州国に国立の競馬場が7つもあったとは初めて知りました。

あと明治5年に起きたマリア・ルス号事件。事なかれ主義の日本の原点はこんなところにあったんですね。

網野史学(もののけ姫)

■もののけ姫
網野史学で有名な網野善彦氏の対談(昔の)が新刊文庫で出ており、冒頭に映画「もののけ姫」の話が出てきます。

山

網野先生が神奈川大学で教えていると、普段は見かけない茶髪の兄ちゃんが真面目に講義を聞いています。どうしたのかと思ったら映画「もののけ姫」のパンフレットに網野先生の談話が載った影響でした。いろいろな若者に聞くと映画を一回見ただけでは理解できず2度3度、見た人が多く、記録的なヒットに結び付いた原因の一つになったようです。

映画の冒頭には蝦夷の里で暮らすアシタカが出できますが、まず蝦夷がよく分からないようです。タタラ(都市)の他はマタギなどの山の民ばかりで山のアジールの世界が描かれ、まさに網野史学を具現化した映画でした。また体に布を巻いた人たちが出てきて石火矢を作っていましたがハンセン病に罹った被差別民ということも理解できないようです。

■水呑み百姓
網野史学とは歴史の中で語られてこなかった人々に焦点をあてたもので、「江口の君」のような遊女など女性についてもいろいろと研究しています。戦国時代、ルイス・フロイスがヨーロッパと違い夫婦の財布は別になっていて時には夫に高利で貸しているのに驚いていますが、昔の女性の地位は今とは全然、違っていました。

明治以降の歴史教育で「百姓=農民」にしてしまったために、米を中心に見る世界になってしまいます。水呑み百姓とは本来は米作り以外の収入が主な人を指しますが、貧民のイメージがついてしまいました。輪島の時国家のように船で交易していた豪農も分類は水呑み百姓という、とんでもないことになり歴史教育に影響を与えてしまいましたね。

フェークニュース

フェークニュースに引っ掛かってしまいました。

津田城
津田城

■津田城
と言っても江戸時代の話で伊能忠敬が日本全国で測量していた頃の話のフェークニュースです。大和と摂津の境に国見山があり、ここにあったのが津田城。昔、登った山城ですが変わったお城で大坂側には防御施設はなく大和側にしか土橋や土塁がありません。しかも郭が山頂にありません。本当に城跡かいなと思っていましたが立札もしっかりたっていました。

■偽文書-椿井文書
最近、出た「椿井文書ー日本最大級の偽文書」(中公新書)に、とんでもない話が載っていました。椿井正隆という人物がいて地域の富農などに頼まれて、もともとは武士だったという系図を作成していました。整合性をあわせるためにいろいろな古文書も捏造。しかも別の地域でも行っており離れた地域でも相互に関連していてダブルチェックしても大丈夫なようになっています。

これが近畿一円に流布していて地域の町おこしなどでも使われ市のホームページや神社の由緒書きに使われるまでになってしまいました。というわけで津田城もフェークニュース。本来は山岳寺院の跡で、ただ三好三人衆と松永久秀との戦いでは陣城として使われ、この時に土塁が作られたんでしょう。

大河ドラマ 桶狭間の戦い

大河ドラマ「麒麟がくる」、明智光秀の前半生が分かっていないので何でもありですなあ。なんで桶狭間の戦いから帰ってきた信長と会っているんだあ(笑)。そもそも明智光秀は美濃生まれではなく近江生まれという説もあります。

沓掛城
沓掛城

桶狭間の戦いも詳細は分かっておらず、こっちも何でもありで昨夜は毛利新介が大跳躍して今川義元を倒しておりました。ほんまかいなあ(笑)。

ただ情報戦を制した簗田政綱をよく登場させていた点は従来のドラマとは違っていました。また昔のドラマでは上洛を目指していた今川義元として描いていましたが、今回は沓掛城を出発し桶狭間を経由して大高城を目指し、最終的に清州攻めを企てていた点もしっかり描かれていました。時代考証が小和田哲男先生ですので、そう変な演出はNHNもできないでしょうね。

しばらくお休みになるのが残念。

菅原道真

疫病シリーズ No6は菅原道真です。

雷神
雷神

右大臣まで急速に出世したこともあり、周りの貴族に疎まれていたようで大宰府に左遷、延喜3年(903年)に亡くなります。さて、ここからが大変です。「北野天神縁起絵巻」によれば、道真が死んでまもない夏の夜、比叡山の僧侶のもとに道真が現れて「怨みを晴らす」と告げたと言います。さあ、怨霊の宣戦布告です。

延喜8年(908)、藤原菅根が雷に打たれて落命。翌年には藤原時平が病死。延喜13年(913)源光が鷹狩りの最中に泥沼に転落して溺死。延喜23年(923)藤原時平の妹と醍醐天皇の間に生まれた皇太子・保明親王が、満19歳で死去。と立て続けに道長の左遷に関わった関係者の死が続き、人々は「道真公の祟りだ」と噂します。

■清涼殿落雷事件がとどめに
疫病が流行り、923年疫病を鎮めるために「延長」と改元します。延長2年4月左遷の詔をした醍醐天皇は道真を右大臣に戻す詔を出しますが効果なし。翌年には藤原時平外孫で、皇太孫が数え年5歳で薨去し、当然、出てくる言葉は「道長公の祟り」!

そしてあの有名な事件が起きます!
延長8年(930)清涼殿で雨乞いについて会議をしていると、あっという間に都の上空に黒雲が垂れ込め雷雨が降り注ぎます。そして清涼殿に雷が直撃。藤原清貫が衣服に燃え移った火で即死、他にも公卿4人が死亡、警備の近衛兵も2名死亡します。この清涼殿落雷事件で体調を崩した醍醐天皇は朱雀天皇に譲位しますが7日後に亡くなります。

■武士の時代へ
震えあがったのが朝廷で、北野天満宮を作り菅原道真を祀ることになります。しかし疫病がまた流行。東では平将門の乱、西では藤原純友の乱がおき、新たな怨霊である平将門が誕生し、平将門を鎮めるために神田明神ができます。

武田信虎の追放

疫病シリーズ No5は武田信虎の追放です。

武田信虎って誰?という人もいると思いますが武田信玄のお父さんです。今川義元に娘を嫁がせて甲駿同盟を結び甲斐を統一した戦国武将です。今川義元に会うために駿河へ行き帰ってきたら甲斐の国境が封鎖されていました。

武田信玄と国衆によるクーデタです。同じ年に武田と争っていた北条氏でも北条氏康から氏政に家督が譲られます。背景には飢饉と疫病があり、民衆の間では疫病や飢饉がひどくなると世直しということで徳政(借金棒引き)&為政者の交代を求めました。甲斐も同じで民衆や国衆からの圧力があり信玄はクーデターを起こさざるをえなかったようです。

疱瘡地蔵
疱瘡地蔵

■徳政とは
柳生街道沿いに疱瘡除けを祈願した疱瘡地蔵があり正長の土一揆によって徳政令(柳生4庄の借金消滅)を勝ち取ったという碑文が書きこまれています。当時、なにかあると徳政令を求める動きになり、貸す方にしたらたまったものではありません。結局は信用できない社会となり疲弊していきます。大和国宇智郡の百姓連判状が残っていますが、これは蔵本(貸す方)に10年は徳政をしないので、お金を貸してという内容でした。

当時の金融は高利貸しでしたが、稲はたくさんの実をつけるので実質はそれほどでもありませんでした。ところが小氷期に入り冷夏などで作物ができなくなると借金が返せなくなります。天候不順も徳政令の背景にありました。