Googleマップで見つけた安倍山城

安倍山城

桜井周辺のGoogleマップを何気なく見ていて発見した山城跡です。最近のGoogleマップにはマイナーな山城跡まで載っていて、なかなか重宝します。山城の名前は安倍山城という名前で場所は谷城から丘陵沿いにずっと行った頂上にあり公園になっていました。

頂上からの眺めはよく桜井~八木~生駒山一帯が見渡せます。山城の案内板があり、暦応4年(1341)に北朝方の細川顕氏が安倍山城に陣を構え、南朝方の西阿が篭る戒重城攻めを行ったそうです。西阿といえば南朝の忠臣で最後に立て籠もった城が近くの外鎌城で、主郭には西阿の碑が建てられていました。

西阿が篭る戒重城は平城で桜井駅の近くにあります。細川顕氏が戒重城の南側にある安倍山城に陣を構えたということは後醍醐天皇の吉野との連絡を断つためでしょう。南北朝の戦いでは桜井一帯が戦場になっていました。戒重城も外鎌城も落ち、西阿は楠木正行と共に四条畷の戦いに出陣し討死したと伝わっています。

安倍山城は永禄8年(1565)にも使われたようです。松永久秀が布陣し、鳥見山城の筒井順慶と戦いました。

大和・谷城

大和・谷城

近鉄・JR桜井駅を降りてまっすぐ南へ向かうと大和信用金庫の本店があり、この本店を通り過ぎると国道165号線(津から出ています)があります。この165号線をを超えると右手にこんもりとした丘が見え、丘の上にあるのが若桜神社。境内には清水湧き出る泉があり、これが桜井という地名の由来になっています。この若桜神社が谷城跡です。谷城の築城時期などは分かっていません。 

階段を上がると神社の境内で社殿がありますが、ここが谷城の主郭になっていて周りを土塁が巡っています。裏側は竹藪になっていますが土塁がよく分かり、神社の南側には空堀が見事に残っています。住宅地の一角なんですが、開発もされず、よく城跡が残りました。

出雲城(桜井)

出雲城(桜井)

十二柱神社(武烈天皇の泊瀬列城宮跡)横に細い道があり、ここを登って道が途絶える所に東の山へ入れる尾根があります。大した藪ではないので、ここから尾根をひたすら登っていくと出雲城にたどりつけます。

主郭が南側にあり北側に2つの副郭があるんですが、郭との間は見事な堀切となっています。郭と郭の間は木橋でつないだのでしょう。虎口は南側で、そのまま主郭に入れず帯郭を通過している間に頭上から攻撃を受ける形となっています。

出雲城の眼下を伊勢街道が通っていて、この界隈には外鎌城、外山城、赤尾城などがあり、おそらく連携していたのでしょう。出雲城は誰が造ったかは不明ですが、かなりの大工事が必要です。永禄3年(1560年)に大和支配を進めようとしていた松永久秀方による、初瀬・宇陀攻めが行われたので、この時に造られたのではという説もあります。

神戸城の大手門

神戸城の大手門

■織田信長のM&A戦略
織田信長は桶狭間の合戦で今川義元を破り尾張の足元を固めてから、隣国へ打って出ます。美濃平定の前後から、併行して伊勢侵攻をはじめますが、まだまだ経営資源が乏しい織田軍が伊勢でとった戦略がM&A戦略。伊勢国には北畠氏や関氏につながる名族が多かったため婿養子として入り込み、事業承継してから最終的に家を乗っ取る作戦です。

北畠氏ー織田信雄(2男)
長野市ー織田信包(信長の弟)
神戸氏-織田信孝(3男)
3氏族に入り込み乗っ取りました。

鈴鹿にあったのが神戸城で神戸氏の居城でした。神戸氏は滝川一益の侵攻に対して戦いましたが最終的には和睦し織田信長の3男神戸信孝を養子に迎え入れます。神戸信孝は城を修築し5重6階の天守を築きました。織田信包の津城、織田信雄の田丸城と伊勢では大きな天守をもった城が3つもそびえることになります。

■神戸城の大手門
神戸城は石垣と郭跡だけとなり遺構は残っていませんが大手門は四日市の西日野町にある顕正寺に移築されています。ポリテクセンター四日市が西日野にあるのですが、仕事のついでに顕正寺まで足を延ばして見てきました。大手門は顕正寺の山門として利用され、高麗門になっていますが織田信孝の時代ではなく江戸時代に神戸城を居城とした本多氏のものになります。

近畿の城郭5

近畿の城郭
LECでの講義の合間に梅田のジュンク堂へ行くと、「近畿の城郭5」がドドーンと出ていました。

そろそろ出るんじゃないかと思っていたんですが、出ましたね~え!完結編になっていますので、こりゃ買わざるをえません。

と言いながら5は定価6,800円もするんです。

近畿の城郭1 5,800円
近畿の城郭2 6,000円
近畿の城郭3 6,000円
近畿の城郭4 6,500円
と確実に上がっています(笑)。ですが、これで近畿にある950の城が網羅されたことになります。

山城の鳥瞰図などをまとめた「日本の城」(3,400円)もあったので、ついでに買ってきましたが1万円以上が消えていきました(泣)。

渚陣屋跡

渚陣屋跡

京阪に御殿山駅があります。名前の通り駅近くの丘陵上に御殿(渚陣屋)がありました。

陣屋を作ったのは永井伊賀守尚庸という人物で、淀藩の初代藩主だった永井尚政の息子です。永井尚政が信濃守となった時の下屋敷があったことから東京都新宿区信濃町になっています。息子の永井尚庸は徳川家綱の小姓を務め、2万石を分与されて渚陣屋を作りました。その後、子孫はすぐ移封となったため陣屋があった時期は短そうです。

現在、陣屋跡は神社や公園になっていますが、けっこう広く、断崖で囲まれているため守りやすい城で枚方や樟葉も一望できます。発掘調査で、中世の大溝が見つかっており、陣屋の前に松永久秀方の野尻備後大夫が造った渚城があったと言われています。この野尻備後大夫ですが借金返済が滞っていると今井宗久が信長に訴えた記録が残っています。

近くには渚の院という惟喬親王の別荘があり、在原業平もよく訪れたようで渚の院をよんだ歌が残っています。

楠葉台場

楠葉台場

枚方で打ち合わせでしたので楠葉台場に寄ってきました。京阪電車の路線のすぐ横に遺構があります。なにもない畑でしたが発掘調査の後、2011年に楠葉台場跡として国の史跡として整備されました。

黒船来航以降、全国に台場が作られ、その一つが楠葉台場。京都の入口にあたる淀川左岸にあり大砲3門を備えていました。勝海舟が指揮をとり外国船が淀川を遡ってくることがないように作られましたが、外国人におびえる朝廷を安心させるためと、過激派などを京に入れさせないための関所の意味合いが強かったようです。

■鳥羽・伏見の戦い
鳥羽・伏見の戦いでは初戦で敗退した幕府軍が後退し淀城へ向かいますが淀藩に入城を断られます。しかたないので淀の先の橋本番所と楠葉台場に兵を集合させます。ところが対岸の高浜台場を守備していた津藩が新政府側について幕府軍に砲撃をはじめたため、幕府軍は総崩れになって大坂に退却します。

楠葉近辺は交通の要衝で今も名神、新幹線、JR、阪急、京阪電車が狭いエリアを走っています。写真に見える山は山崎山で秀吉と明智光秀が激突した山崎の合戦が行われたところです。

佐竹氏

佐竹氏陣跡

”今福の戦い”で豊臣方と戦った佐竹義宣は佐竹氏19代、佐竹氏は常陸源氏の嫡流で名門でした。本貫は常陸国久慈郡佐竹郷(茨城県常陸太田市)で、鎌倉公方や足利将軍家との争いに巻き込まれながら常陸を中心に戦国大名へと育っていきます。

当主の佐竹義宣は石田三成に近かったですが、関ヶ原の戦いでは家中での意見がまとまらずに中立的な態度をとります。これが問題となったのか徳川家康から突然、出羽国秋田郡への国替えを命じられ、先祖伝来の常陸を離れることになりました。国替えの原因は諸説あります。

この後、大坂冬の陣で上杉景勝と共に最前線を任せられ鴫野・今福の戦いに臨みますが、この時の陣跡が現在、若宮八幡大神宮となっています。江戸時代は国替えもなく明治維新を迎えますが、幕末はいろいろと事件がありました。まず平賀源内が遠近法などの蘭画の手法を伝えたところから生まれたのが秋田蘭画でなんと藩主までが蘭画を描いています。戊辰戦争では平田篤胤が秋田出身ということもあり尊王の意識が強く、最初は奥羽越列藩同盟に加わっていましたが離脱して新政府軍に参加、怒った仙台藩と秋田戦争を戦うことになります。

今福の戦い(大坂冬の陣)

今福の戦い(大坂冬の陣)

大坂城の北側にある鴫野村のさらに北側を大和川が流れ、川を渡った対岸が今福村です。今は大和川でなく寝屋川が流れています。

今は住宅街になっていますが当時は低湿地帯でした。兵が展開できるのは堤の上だけで周りは田んぼという状況です。豊臣方は柵を設け守備していましたが、徳川家康は附城を鴫野と今福に築くため、柵の攻略を佐竹義宣に命じます。佐竹義宣が堤を進み柵に攻めかかっていたところ、大坂城から木村重成が応援に出て反撃したため佐竹勢は後退します。ところが対岸から上杉勢が銃撃するため木村隊も進めず膠着状態になります。

そこへかけつけたのが後藤又兵衛で、ひるむ豊臣方を立て直して堤の上から銃撃を開始し、木村隊が突っ込むことで佐竹勢の先鋒隊が潰走することになります。佐竹義宣も危うくなり家老が討死にする事態となります。対岸の上杉勢に救援を求め、上杉景勝、堀尾忠晴、榊原康勝の軍勢が中州まで降りて側面から銃撃したことで豊臣方が引き上げることになりました。両者、引き分けの戦いでした。

今福の戦いの碑が三郷橋稲荷神社のすぐ横にありますが、何も残っていません。ただ堤の高低差が残っていて、かなり狭い堤の上での戦いが実感できます。真田丸での戦いが始まる2週間前のことです。

上杉景勝陣跡(鴫野)

八剱神社

大河ドラマ「真田丸」で真田丸での真田軍の奮闘を見た上杉景勝が「真田左衛門佐、日ノ本一の兵なり! 」と叫ぶシーンが出てきますが、上杉景勝は真田丸近くにはおらず、いたのははるか北の鴫野という場所です。

鴫野には八劔神社があり、ここが大坂冬の陣での上杉景勝陣所と伝わっています。ここで鴫野の戦いが行われました。豊臣方は鴫野村に柵を設置し、兵2,000で守備していましたが、徳川家康は付城を築くため、鴫野の柵の奪取を命じます。鴫野へ向かったのが上杉景勝と後詰の堀尾忠晴、丹羽長重、榊原康勝です。

上杉軍が鴫野の柵を攻撃し、柵を占拠しますが、大坂城から大野治長らが12,000の兵で来援し反撃に転じました。上杉軍は鉄砲の一斉射撃や槍兵の側面からの突撃で援軍を撃退します。

鴫野の戦いの後、上杉景勝は大坂城の東側で大坂方と対峙しましたので真田丸ははるか先です。日ノ本一の兵なり! と言ったのは大体、島津ですしね。