弘仁寺

「山の辺の道」をずっと歩いていくと山の中腹に弘仁寺があります。弘仁5(814)年に弘法大師が創建したと伝わっていますが本当のことは分かりません。平安初期にはできていたようです。戦国時代には、松永久秀の大和攻めで伽藍の大部分が焼失してしまい。現在の伽藍は江戸時代に再興されたものです。

弘仁寺
弘仁寺

鄙びたお寺で入山料としてセルフで200円を入れるシステムになっています。見どころは本堂と明星堂なんですが、山門を出て駐車場じゃなく階段を降りる道を歩いていくと暗い場所に奥の院があります。ここに閼伽井戸があり、弘法大師が三鈷杵で掘ったという話があります。眼病にきくんだそうです。

石上大塚古墳

天理から桜井を目指す山の辺の道・南コースは見どころも多く人気のコースですが、天理から奈良を目指すコースは地味なこともあり歩いている人はほとんどいません。

さて天理から山の辺の道を歩いていくと藪の中にあるのが石上大塚古墳。案内板から20mほど登ると石室がありました。天井石などは失われた状態です。

石上大塚古墳
石上大塚古墳

■石上大塚古墳の被葬者は誰?
石上大塚古墳は全長107mある前方後円墳で100mほど離れた反対側には少し大きいウワナリ塚古墳があります。石上大塚古墳が造られたのは6世紀後半で、ウワナリ塚古墳より若干遅れて造られたようです。少し離れたところに別所大塚古墳がありますが、石上大塚古墳、ウワナリ塚古墳、別所大塚古墳の3つは物部氏の首長墓だったようです。

6世紀後半となると蘇我馬子&連合軍が物部守屋を攻めた587年頃ですね。これで河内の物部守屋一党は滅びましたが、一族の石上氏が物部氏の本宗家になることになります。3つの古墳の被葬者は分かりませんが、物部贄子(物部尾輿の子供で物部守屋の弟)あたりですかねえ。石上贄古という名前もあり、娘が蘇我馬子の奥さんになっています。

排仏派、崇仏派の戦いと昔の日本史では習いましたが、そんな単純なものじゃなく半島情勢や権力闘争など複雑怪奇だったようです。

高橋さんの古里

石上神宮からずっと山の辺の道を歩いていくと「高橋」があります。

そうです。全国の高橋さんのルーツです。
万葉集に「石上 布留の高橋 高高に 妹が待つらむ 夜そ更けにける」という歌があります。意味は「石上の布留の高橋のように、心も高々と爪先立つ思い出 妻が私を待っているだろう もう夜は更けてしまった」

という割には、そう高くもない橋なんですが。現在は人が通れる小さな橋になっていて、橋から「ハタの滝」が眺められます。江戸時代の夏越大祓では、石上神宮の神剣が渡御していたと伝わります。

ハタの滝
ハタの滝

和歌山の藤白神社は鈴木さん発祥の地として売り出していますが、石上神宮は、さすがに、そんな売り出しはしていませんね。

石上神宮

天理の町をずっと歩いて石上神宮へ。古代からあるとっても古い神社です。

石上神宮
石上神宮

石上神宮は物部氏の神様で、物部氏の祖は饒速日命(ニギハヤヒ)であり神武天皇よりも前にヤマト入りをしていた不思議な豪族です。物部守屋と蘇我馬子・聖徳太子の戦いが有名ですが物部氏は滅んだわけではなく、一族の石上氏がその後を継ぎます。石上氏は天理周辺を本拠地していたようです。河内も物部氏の根拠地で石切神社も物部の神様です。

石上神宮といえばスサノオがヤマタノオロチを退治した布都御魂剣(十握剣)が有名です。もともとは岡山の石上布都魂神社にありましたが石上神宮に移されました。どうも物部氏は吉備出身といわれており、邪馬台国・畿内説の有力候補である纏向遺跡から吉備の土器が出ているのが意味深です。

物部氏は軍事を担当していたので石上神宮はヤマト政権の武器庫でもありました。

天理

天理駅から長い商店街を歩くと天理教本部教会の前に出ます。

天理
天理

商店街にはふつうのお店も多いのですが、天理教の教本を売っている本屋や神具を売っているお店があるのは独特ですね。若い兄ちゃんや姉ちゃんが天理教の黒い法被を着て商店街を歩いているのも天理ならではです。日本では珍しい宗教都市で海外でいえばバチカン市国みたいなもんですかねえ。高野山もよく似た雰囲気があります。

天理といえば有名なのが天理図書館。2代目真柱だった中山正善が古典籍を収集し、収集を手伝っていたのが古書肆「弘文荘」の反町茂雄。国宝の日本書紀、播磨国風土記また源氏物語、新古今和歌集などが散逸せず収集されました。本を集めるといっても、陰にはいろいろとドラマがありまして、詳しいいきさつなどは「天理図書館の善本稀書 一古書肆の思い出」(八木書店)に語られています。

といっても今回の目的は石上神宮ですので、天理図書館は素通りです。

金剛峯寺 仁王像

吉野にあるのが金峯山寺。青い金剛蔵王大権現で有名です。

仁王像
仁王像

JR東海の「いま、ふたたびの奈良へ」では、この金剛蔵王大権現が印象的でした。

この金剛峯寺の入口を守るのが国宝の仁王門です。建立されたのは吉野が南朝の拠点となった南北朝時代。700年経ったということで10年をかけて解体修理中です。

仁王門を守るのが仁王像で、こちらも修復することになり吉野を出て、良国立博物館の仏像館で仁王門の解体修理が終わるまで展示中です。高さ5mはあり、迫力がありますねえ。

朱雀大路

平城京の大内裏南面にある朱雀門から羅城門まで3.7kmにわたって続くのが幅70メートルの朱雀大路です。朱雀大路はそのまま下ツ道につながり、遠く藤原京まで延びていました。

朱雀大路
朱雀大路

広い朱雀大路を活用して朱雀門前では外交使節を迎える儀式や騎兵の出征や凱旋が行われました。また美観にこだわっており十数名ほどいた公卿以外は朱雀大路に面して門を作れず、整然と築地塀が続いていました。また道の脇には排水溝と街路樹が整備されていました。

現在、朱雀門の南方約250メートルほどにわたって朱雀大路が復元整備されており、当時を彷彿できます。名古屋の100m道路のようですなあ。

興福寺・西門

奈良博三昧を見た後、帰り道の興福寺へ。国宝館へ寄って阿修羅像などを見てきましたが係員以外、誰もいません。コロナ禍で修学旅行もなくなったので観光客よりも鹿の方が多い状態です。

西門
西門

国宝館のすぐ近くで発掘調査をしていました。復興された中金堂と東金堂との間に昔は西門があったそうで今は東金堂しかありませんが、東金堂も回廊に囲まれていたそうです。

今、中金堂との回廊と東金堂との間は広い参道になっていて、五重塔の写真を撮るベストポジションですが、往時はもっと狭かったようです。中金堂復元の後は五重塔の修理に入るそうで、さすがに西門の復興はないでしょう。

天平時代のコロナ特別休暇願い

奈良博三昧には天平宝字2(758)年に書かれた休暇届もありました。万昆嶋主が勤務先の写経所に提出したものです。

万昆嶋主解
万昆嶋主解

なんでも親戚(父親の姉妹?)が重病になり、起きることができない状態となったため、看病をしていたが病状が回復しなかったので、さらに4ケ日の休暇を願い出たものです。他に看病する人がいないとも書かれています。

天平時代は天然痘が大流行し、藤原四兄弟が次々に亡くなった時期です。新羅に派遣されていた遣新羅遣から全国に拡がったのが原因のようです。重病の原因が天然痘なら、万昆嶋主が提出したのは今でいうコロナ特別休暇願いですね。

いまと同じようにパンデミックによる社会不安が起きます。ワクチンなどの有効策がないため聖武天皇が考えたのが全国に国分寺を建てて、金光明最勝王経による疫病バリアをはりめぐらせることでした。バリアの中心となるのが奈良の大仏になります。

紫微中台

国立博物館で奈良博三昧をやっていて、展示されている古文書を見ていると紫微中台の文字が!!

紫微中台
紫微中台

紫微中台だ~あ!

紫微中台って何か分かりますか。よみは「しびのちゅうだい」です。

もともとは臣下出身から初の皇后となった光明皇后のために作られた皇后宮職があり、これを唐風の名前に改めて発足させます。横文字のデジタル庁みたいなものですね。

■紫微中台
律令制度にない新設の官職(令外官)で聖武天皇と光明子の娘である孝謙天皇を補佐するために749年に設置されました。トップになったのが藤原仲麻呂、そうです恵美押勝です。権限を握ったこともあり、橘諸兄、吉備真備、道鏡などオールスターとの政変になります。仲麻呂の後ろだてだった光明皇太后が760年に亡くなると、紫微中台も廃止されます。

■藤原仲麻呂の乱
そして起きるのが藤原仲麻呂の乱。平城京を脱して息子が国司をしている越前を目指す藤原仲麻呂ですが立ちはだかるのが吉備真備です。吉備真備は70歳と高齢でしたが唐で軍略などを学んでおり、仲麻呂の先回りして三関を閉め、琵琶湖の西側に追い込みます。現在の近江高島あたりにあった三尾城あたりで仲麻呂は最後を遂げます。

10年ちょっとの紫微中台の文字が古文書に残っているんですねえ!